管理人の論考

登山事故裁判の定向進化

約半世紀前の日本には、「ケガと遭難は自分持ち」という共通認識が、登山者とその家族、さらに日本の社会全体で共有されていたようである。朝日新聞OBで山岳記者である武田文男氏は、このあたりの事情を以下のように述べた。

もともと登山界には、「山の危険は、リーダーも隊員も分け合うものだ。不幸なことが起きても、原因追及、反省などのすべてを内部で処理し、下界にはもちこまない」といった空気があった。私の周辺でも、いくつも遭難事件が起きたが、訴訟問題に発展する気配はまったくなかったと言っていい。・・(武田文男著『山で死なないために』(朝日文庫))               

このような状況下では、⒜社会人や大学の仲間同士の登山、⒝小中高校の学校行事の集団登山(中高校山岳部の登山を含む)、⒞費用を支払って主催者(ツアー会社やガイドや山岳会)の企画に参加する登山のどんな形態の登山であっても、指導的な立場の人が、事故発生時に法的な責任を問われることは、まれであったと考えられる。実際、この頃の裁判記録を調べてみたが、昭和40年5月に発生した東京農大ワンダーフォーゲル部のいわゆる、死の「シゴキ」事件しか見つけることができなかった。この事件は、上級生が新入部員になぐる蹴るなどの暴行を山行中に加えて、その結果、1名を死亡させるという事件であるのに、死亡した新入部員の父君が「父としての悲しさを超え被告人等の行動を許したい」と証言した事例であった(『判例時報』455号参照)。

登山事故の法的責任は追及すべし、新しい「共通認識」

しかしながら、このような時代は長くは続かなかった。

増え続ける登山事故は社会でも大きな問題となり、「登山中の事故であるからと言ってすべての事故を法の及ばない『聖域』としてはならない」という意見も聞かれるようになっていった。こうして、日本の登山界は、「リーダー」の法的な責任が追及される時代を迎えたのである。

昭和60年初版の登山指導書『高みへのステップ』(文部省)には「リーダーの法的責任」という項目が設けられ、1.危険引受の法理、2.不可抗力、3.自己過失、4.リーダーの注意義務、5.刑事責任、6.民事責任についての解説がなされている。同書の「危険引受の法理」は、登山事故の法的な責任を考察する上で重要であるので、引用しておこう(ただし、[ ]内は私による記入)。

従来,登山に関しては,法律的問題が入り込む余地がないと考えられてきた。というのは,登山は本来危険を内包しているスポーツであり,登山者はもともとそれを承知で登山活動に参加しているのであって,(危険引受の法理),他の事故とは別な法的判断がとられる。その行為が,そのスポーツのルールやプレーなどから判断して,社会的に容認されるものである限り法的には責任は問わないという考え方である。つまり,故意又は重大な過失による行為でない限り容認されるという考え方である。

[以下3行省略]

装備不十分,事前準備の不完全,いい加減な状況判断,その他通常の注意を払えば当然わかりきった危険を不注意のために予測,対応できず危険こ陥った場合は前もって,そのような危険に同意したとは考えられない。ことに,学校集団登山,市民登山などに参加する児童生徒や登山の経験のない人たちは,自分で状況を判断し,対応する能力に欠けているので,リーダーはそれらの人々を安全に行動するように導く義務がある。したがって,リーダーが十分な注意義務を怠ったために起きた事故では,参加メンバーはそのような危険を前もって受容したとは考えられない。(『高みへのステップ』(文部省))

このように、20世紀後半になると、日本の登山界は、ことに、前記の⒝と⒞のタイプの登山では、「指導者の法的な責任が問われることがある」という新たな共通認識を持つに至ったのである。

それでは、21世紀を迎えた現在の日本の「共通認識」はどのようになっているのだろうか。ここ数年間の新聞記事と雑誌から、登山事故裁判に関する見出しを引用する。

a,小日向徹「フリークライミングの危険を考える 連載2 賠償事故Ⅱ」『岩と雪』162号

b,「大学に責任」と遺族が提訴 北アの弘前大山岳部員遭難死,『朝日新聞』1997.01.31 

c,北海道・倶知安町の冬山ツアー雪崩事故、ガイド2人に有罪,『毎日新聞』2000.03.21 

d,登山ツアー遭難死 添乗員ら書類送検 北海道県警,『中日新聞』2001.8.01

e,『注意義務なかった』 滝つぼ転落事故 名高裁、控訴棄却,『中日新聞』2001.8.22

5つの事例中、特にabeは新しいタイプの裁判例である。これらはすべて、営利目的ではない主体的な登山中に発生した成人参加者の事故についての訴訟であった。特に、94年に小日向徹氏が論考したロッククライミングの確保中の事故についての裁判例は、事故者本人が訴訟を起こしている点でも注目に値する。

このように、『高みへのステップ』の著者が約20年前に「登山事故における法的責任の問題は次第に顕在化する方向にある。」と憂慮した「傾向」は、よりいっそうの進化を遂げたと推測できるのである。もし、リーダーやその遺族が、メンバーに対して損害賠償請求をする事例が発生すれば、この定向進化は1つの「完成」を遂げたことになるだろう。

もちろん、登山者の中には、今なお過去の「共通認識」を受け継ぎ、「ケガや死は本意ではないが『自己責任』として受容せざるを得ない。仲間の法的責任を追求して欲しいとは思わない」と認識している人達も少なくはないだろう。

しかし、その一方で、「リーダーの重大な過失は他のメンバーの自由参加論で免責されるものではない」という見解を公開する岳人が存在することもまた「事実」である。このような情勢下では、最愛の家族を山で失った家族が、「危険引き受けの法理」などに納得せず、裁判を受ける権利を行使することはなんの不思議もない。

したがって、現在の日本社会における登山者に必要なことは、「どんな登山形態においても、法的責任が追及されたことがある」という「現実」への自覚である。これが、ここ数年を事例eの被告として過ごした私の実感である。

法的責任の認定--民法709条と注意義務違反

日本においては、法的責任について判断するのは「裁判官」である。

裁判官は「良心に」従い「憲法及び法律にのみに拘束され」て、「心証」を元に公正な判決を下すことになっている。では、裁判官は登山事故裁判において、どの「法律」に拘束されるのか。裁判の当事者でない間は、その法律とは「民法七〇九条」であると大まかに理解し、あわせてこの法律の成立要件の概略を覚えておけば必要十分であると思う。

民法七〇九条は、具体的には「故意または過失に因りて、他人の権利を侵害したるものは、これによりて生じたる損害を賠償する責に任ず」という規定である。そして、この法律はある条件下で適用可能になる。裁判官が「賠償金を支払え」と宣告するにあたって検討を加えなければならないこの条件、つまり不法行為の成立要件とは、すなわち、1.故意と過失、2.権利侵害、3.損害の発生、4.故意あるいは過失と損害の発生の因果関係、5.責任能力、6.違法性阻却事由である。なお、このうちの1、2、3、4は原告が証明しなければならず、5と6の立証は被告がしなければならない、ことになっている。

頭がガンガンしてきた人も多いだろう。そこで登山事故に限定して考え、「超訳」も交えて、もう少しマシな私たち一般人に理解しやすい状態を構築してみたい。

まず、「故意または過失」は、前記aの事例研究で小日向氏が指摘したように「わざとまたはウッカリ」と翻訳しておけばよい。しかし、登山事故の発生が「故意」、つまり「わざと」ということは考えにくい。もし遭難が「わざと」引き起こされたら、もはやそれは「事故」ではなく「事件」であり、「○○殺人事件」などと呼ばれることになる。

そこで、「故意」は省略しても良いと結論して「過失」だけを考えることにする。ここで、過失は、A予見可能性とB結果回避義務(注意義務といういい方もあるが)という2つの要素に分解して検証されると覚えておいてほしい。

次に、成立6要件では、ケガと死亡が、2.権利侵害にあたることには異論はないはずだし、登山事故ではケガや死亡という3.損害の発生も明らかだ。よって、2と3が「本当にあったのか否か」を立証する必要はなく、証明が要求される成立要件は1と4だけである。5と6は、1、2、3、4に対する免責条項、つまり、やむを得ない理由のことである。被告の側が、5と6をハッキリと示せば、「賠償金を払わなくてもよくなるカード」とでもいえばわかりやすいだろうか。

二重否定用語である6の違法性阻却事由の中では、正当防衛・緊急避難・被害者の承諾・正当行為などが登山事故訴訟と関係してくるのだか、本稿での解説は省略する。

かくして、登山者のための民法七〇九条と原告が勝つための条件については、次のようにおおまかな理解しておけば良いことになる。責任は全く持たないが、それほど間違ってもいないと思う。

その1

 常識で考えれば「事故」は予測可能(成立要件①過失の要素A)で、かつ、その発生を事前に防止しなければならない立場(免責条項5)だった人は、ウッカリ間違ったことをしたりウッカリするべきことをしない(成立要件1の過失の要素Bへの違反)で、そのことが原因(成立要件4)で他人をケガさせたり死亡させたことが明らかになった(成立要件2と3)ら、法律に定めたやむを得ない事情(免責条項6)がない場合は、与えた損害分をお金で弁償する法的な義務がある。

その2

 原告は、成立要件1と成立要件4を提出して、裁判官さえ納得させることができれば、裁判官は「被告は原告に賠償金を支払え」という強制命令を出す。ただし、被告が、免責条項の5と6の少なくともどちらかを主張して証拠を提出し、この証拠(証言も証拠の1つである)に裁判官が納得したら、この判決を得ることはできない。

このように、山岳事故裁判の勝敗は「『しっかり』している法的義務のある被告が『ウッカリ』していたことが原因で他人に損害を与えたか、否か」について、裁判官がどう判断するかだけに、かかっているのである。

ところで、この「しっかり」する義務は「注意義務」と呼ばれている。よって、訴訟は、この「注意義務違反があったか、否か」について、裁判官の心証形成をいかにして自分に有利なように導けるかどうか、というの争いと言うこともできる。

なお、「注意義務」、つまり「なにがなんでも最低このくらいはやらないと」という最低基準の程度は、登山の形態やパーティの各人の実力や立場によって異なると言うことは記憶しておいてほしい。遭難したパーティのリーダーと親に連れられてそのパーテイに参加した小学生の「注意義務」の程度を考えてみれば、よくわかると思う。

本多説の誕生と裁判所判事による論評

 裁判官が「注意義務」の高低を判断する基準の1つは過去の判例である。しかし、この基準を考える時に、本多勝一氏の賢察を忘れることはできない。本多氏の二つの著作物からこれを引用し、「本多説」と呼ぶことにする。第一は、『潮』1987年8月号に掲載された「雪山の引率登山は免許制に」という一文である。

・ ・・私は「引率登山」についていってるのである。つまり山について無知な初心者をリーダーが責任をもって連れてゆく場合のことだ。それ以外の登山、つまり初心者(たち)が勝手に自分で行くとか、経験者やベテラン(たち)があえて危険な山に挑戦するとか、要するに責任が「引率者」にない場合のことを問題にしているのではない。電車の線路の間に寝て、電車をやりすごしたり、タルにはいってナイヤガラの滝からころげ落ちたりすることに死の危険があったとしても、それが「引率」され、安全だと信頼してだまされたのでないかぎり、あくまで個人の責任であり、法的にどうのこうのする問題ではない。個人の自由である。・・・・

「電車の線路の間に寝て、電車をやりすごしたり、タルにはいってナイヤガラの滝からころげ落ちたり」というたとえは、やや極端ではあるが、主体性こそが最大の基準であるという「本多説」の根幹を説明するのには最適な譬え話である。この文章から、他人にどれほど無茶な行動であると判断されても、本人たちが納得しているのであれば「本人たちの自由」であり、他人がとやかくいうことではない、という本多

氏の意思、つまり「冒険の精神」が感じられる。

第二は、『山と渓谷』1990年2月号に掲載された本多氏の「ガイド付き登山と遭難–新雪の穂高吊尾根の場合」である。ここでも、本多氏は山の遭難においては「引率登山」と「自主登山」の峻別が必要と強調し、以下のように述べた(ただし、[ ]内は私が記入)。

・・・前者[「引率登山」]の例は、学校で先生がリーダーになって生徒をつれてゆく場合とか、何らかの主催者が一般から募集してつれてゆく場合とか、あるいは今回のようにプロのガイドが初心者をつれてゆくような場合だ。これは前述のようにバスの運転手に相当する。客はリーダーに生命をたくしている。明確に責任がある。したがって死亡事故となれば過失責任が問われるのも当然であろう。[以下、約116字省略]

 だが、後者(②「自主登山」)はこれとは本質的に異なる。たとえば大学のクラブの仲間同士で登る山とか、同好会や社会人山岳会が互いに山仲間として登る場合、もちろん比較的力あるものがリーダーになることが多いものの、公募したり学校行事での生徒を引率する場合のような大きな責任を負わされはしない。・・・

                           

「本多説」は、法的な責任を考える上で非常に有効な指標であり、「自主性の程度」と言う概念は、野外活動事故の法的な責任を考える上で決定的な座標軸となると思う。

一方、浦和地方裁判所判事の辻次郎判事は法律雑誌『判例タイムズ』(判例タイムズ社)997号及び998号に「登山事故の法的責任」という論文を発表し、登山事故裁判の判例について論評した。辻判事は「登山事故があった場合、まず、それが引率登山か自主登山かに大別すべきである、と述べ、これ以外にも、営利性から「営利型」と「非営利型」に、参加者の登山能力等から「成年型」と「未成年型」に分けることができるとした。よって、辻判事の分類は「本多説」の発展型と言うことができる。

辻判事はこの分類によるリーダーの注意義務の程度について検討し、最も高いものが引率・未成年型であり、自主・成年・非営利型は注意義務の最も低いものであり、「請求が大幅に減額されたり、棄却になることもおおい」はずだと結論した。この分類は、現役の判事による分析であるので、今後の裁判実務の参考になることは明らかである。   

非自主登山を「引率登山」と呼ぶことへの疑問

本多説の画期性は「どこまで自分の自由意思で決定したか」という基準を提唱し、裁判にすべきタイプとそうでないタイプがあることを明確に指摘した点にある。しかし、「自主登山」及び「引率登山」という呼称が、一人歩きし過ぎると、不必要な混乱を生じさせるおそれもあるので、この点に言及しておきたい。どのように混乱するかを具体的に検討してみよう。

事例1

ある山岳ガイドの営利を目的とした○○山登頂ツアーに参加したある1人の成人男性が不運にもこのツアー登山中に行動不能になって凍死してしまったとする。これはやはり「引率登山」に分類することになるだろう。しかし、この対象が標高8000メートル峰の登頂ツアーだったらどうなるのか。私の山岳会の同期の話によると、ヒマラヤ登山での隊員の死亡率は平均でも100人に1人くらいという、とてつもない数字だそうだ。よって、たとえば、ニュージーランドのガイド主催のエベレスト登頂ツアーでは、「主催者の登攀と救助能力」「過去の顧客事故率と死亡例」「顧客死亡予想率」及び「顧客遺体取り扱い基準」などの説明責任が果たされていれば、法的責任を追及され得ないケースがあるのではないか。もしも私がこのツアーのガイドだったら、「引率登山」と言う理由だけで、自動的に法的な責任を追求されることなは容認できない。

事例2

パーティは、全員が冬山経験も豊富で厳冬期の山に挑戦できるだけの登山技術レベルに達した社会人山岳会である。この山岳会所属の成人パーティが冬の穂高滝谷を目指したとする。これは典型的な「自主登山」である。ただし、全員がリーダーの命令に服従する「上位下達」の伝統があったとする。もし、この登山パーティが、登攀中に雪の斜面を横断するかどうかの判断を迫られ、リーダーが「雪崩は大丈夫だ。おまえが最初に行け。」とメンバーに命令したとする。しかし、雪崩の危険を察知したメンバーは「ここは雪崩れるかもしれない。岩稜帯から行こう。」と提案した。しかし、リーダーは「岩稜帯は時間的に無理だ。ここから行け。」と重ねて指示を出し、ピッケルや登山靴でこづいたりして横断を強要し、その結果、メンバーは雪崩に巻き込まれ死亡したとしよう。この場合にも、「自主登山」であるからリーダーに法的な責任はないと主張できるのだろうか。私は、一定以上の実力を持った仲間同士の「自主登山」であるから法的責任まではないとすることはできないと思う。もし私がこのメンバーの家族だったら、「自主登山だった」という主張を決して容認できないだろう。

上記の2つの仮想事例は、「引率登山」と「自主登山」という呼称に拘泥したために発生する問題であって、「どこまで自分の自由意志で決定したか」という「本多説」の根幹を把握していれば何の矛盾も発生しない。

事例1は、場合によっては死さえ受容するという「本人の自由意思」の結果なので、本人の責任である。ましてガイドは説明責任を全うしている。これは主体性の強い「自主登山」に分類されるべきだ。これに対して、事例2は、見かけは「自主登山」で、山行自体は本人の「自由意思」による参加であったかもしれない。しかしながら、法的な責任は、登山の個々の局面においても判断されなければならない。この遭難者が上位下達式のリーダーを、それまでは許容していたとしても、事故直近の局面では明確に否定し、にもかかわらず、リーダーは命令と暴力によって「個人の意思」を侵害し、明確な因果関係の元に他者の生命が失われたのである。このケースは「非自主登山」に分類され、刑事責任が追及されてもやむおえないと思う。「強制登山」という通称を与えても良い。

以上検討したように、「自主」や「引率」という言葉は、「本多説」から導き出されたあくまでも二次的な符号である。この本質を理解する能力がなかったり、理解していても恣意的に解釈して、「自主登山」と「引率登山」という言葉を使う事態ともなれば、議論は紛糾するだけだ。

裁判での証明には、最高裁の見解によれば「一点の疑義も許されない自然科学的証明ではな」いものの「通常人が疑いを差し挟まない程度に真実性の確信を持ちうる」程度の精度は必要である。したがって、本多氏の影響力も考えあわせると、やはり、「自主登山」と「引率登山」という呼び名ではなく、「自主登山」と「非自主登山」という名称を使用して正確を期した方が良かったと思う。分類の目的は「最小限の認知的努力によって最大の情報を得る」ことである。ある分類基準の導入によって、以前よりも混乱した状態を招くようでは分類する意味が失われてしまうのである。

したがって、もし個人の意思を踏みにじるような登山を減らさなければという使命感から、「引率登山」という「呼称」の方が効果的だと判断したのだとしても、混乱を防ぐために、少なくとも「引率登山」という言葉は「非自主登山」の「通称」であって便宜的な用語である、と明記すべきであったと思料する。

同様の理由で、辻判事の分類についても、符号にとらわれ過ぎるのは問題である。たとえば、小学生の頃からフリークライミングに親しみ日本でもトップクラスの実力を持つ中学生が、高校入学時に数回の岩登り経験しかない教員を、「スポーツクライミングは安全」と巧みに説得して顧問になってもらい、部員たちで計画した合宿を引率させて、自らリード中に地面まで落下してしまい大怪我をしたとする。このケースでさえも、「未成年・引率」タイプであるので顧問教官の法的責任は明らか、と言うのでは不条理である。 

以上の検討から、やはり法的責任の程度の判断は、一義的には、「どこまで自分の自由意思で決定したか」と言うことを基準とし、二義的に「決定する判断能力があったのか(あるいは判断能力を備えているべきだったか)」あるいは「説明責任は果たされたのか」などの基準を用いて判断すべきであるということに尽きる、というのが私の見解である。もちろんこの問題については、今後さらに議論が尽くされる必要があると思うし、両氏の論考が登山事故の法的責任のブレイクスルーとなったことは歴史的な事実だ。この完成度を高める責任は、われわれ後輩の義務というべきものである。

「リーダー」への説明責任と「つれていってもらう側」の責任

我が国の司法制度は変革期を迎えている。市民の権利意識の変化と弁護士数の大幅な増員などを考慮すると、法廷に立つ「リーダー」は増え続けるという印象を受ける。

しかし、私は「山岳訴訟の増加を憂慮する」という立場はとらない。なぜなら、登山事故裁判の様相は、裁判にすべきケースとそうではないケースが混在しているのが現状である。よって、後者のケースが法廷に持ち込まれることは、現段階ではやむを得ないことだと思う。むしろ、その逆のケースが発生することを憂慮しなければならない。したがって、前者のケースの被告になったとしても、この対価は私たち登山者が負担すべき性質のものだ。

裁判になっても必ず法的な責任が認定されるわけではない。注意義務を尽くしていれば、「注意義務違反なし」とういう判決を得ることができるのである。したがって、役割があたえられた者は、事故に関する事実を少しでも多く正確に開示することに努め、静かにその役目を果たせばよいと思う。もちろん、主張すべきことは責任をもって主張しなければならない。

責任ある態度とは、責任のないことまで「すべては自分の責任です」と引き受けてしまうことなどではない。責任のないと信じることついては、批判にひるまず、「少なくとも、この点については責任がないと思う」と根拠を示してハッキリと主張する姿勢である。

これから訴訟にかかわるの登山者たちによって、多くのデータが蓄積され、やがて登山者本人はもちろん、その家族やそして社会全体が真に納得できる「共通意識」、つまり裁判にすべきものとそうでないものを見分ける「知恵」とが獲得されることを希望したい。

しかしながら、この大前提として、被告の役割を果たす人たち、つまりリーダーたちへのインフォームドコンセントは絶対に必要である。リーダーとは「法的な責任を問われる立場だというリスクを踏まえて引き受ける役目」であることの「説明責任」が果たされねばならない。自主登山だから法的責任は免責などという考えは幻想である。法的責任は確定しない確率が高いとしても、提訴は自由であるし、「免責同意書」に法的効力はないのである。また、不思議な裁判官も存在するようなので、個人賠償責任保険には必ず加入しておかなければならない。

ところで、これまで日本の登山事故裁判において法的責任を問われたのは、「つれてゆく側」のリーダーたちであった。しかし、もし法的な責任をリーダーに対して、厳しく問うのであれば、「つれていってもらう側」の法的な責任も問われるケースがあるはずだと思う。初心者であると言う理由だけで、すべてに免責されるというのでは不公正である。

つれていってもらう側の責任として私が考えている項目の中で、重大な2つの項目を本稿で指摘しておきたい。

第1は、「つれていってもらう側」も、パーティの安全のために協力しなければならないということである。たとえば、実力の過大報告や既往症の隠蔽、あるいは著しく身勝手な行動などは、法的な責任を追及されるべきケースとなりうるだろう。バスの乗客であれば、寝ていようが、酔っぱらっていようが、ある程度なら勝手気ままにしていてもかまわない。しかしながら、少なくとも自ら進んでその企画に参加したメンバーには、リーダーの指示に耳を傾け仲間と助け合って、山行に貢献する責任がある。自主登山のメンバーは「バスの乗客」であってはならないのだ。

第2は、登山者は家族、特に相続権を持った親族に対しては、自分が行う登山の危険率を知らせておくべきである。間違っても、なんとか山に行きたい一心で、「危険は絶対にない」とか、「リーダーが優秀だから絶対安全」などという虚偽をのべてはならない。家族に、なにひとつ知らせず、クライミングにつれていってもらうなどは言語同断で、「未必の故意」にも相当する行為である。

冒険の精神とリスクは個人の判断であるという「思想」

この5年間で、私の知人の10名近くが登山中に死亡した。わずか2年の間に数名の命を直近で見送った。それでもまだ登山は続けている。訴訟中も、ここで事故が起きたら「この人の家族はオレにたいして訴訟を起こすかもしれないな」と考えながら、実質的にはリーダーとみなされるであろう登山を何度か務めたこともある。

なぜ、そこまでして」という問いに答えることは、「なぜ、わざわざそんな危険なことを」に答えるのと同じくらいに、この国では難しいことだと思う。しかし、他の国ではかなり事情は異なるのかもしれない。カナダで聞かされた思想には、そう思わせる十分な説得力があった。ウィスラーのローカルスキーヤーは次のように語った(ガケの向こうに消える前に)。

「まず、スキー場内の『クリフ』という標識とロープは、あくまで、その先はガケだというサインだ。どうするかは君の自由だ。スキー場の境界を示すロープも、ここから先はバックカントリーだというサインに過ぎない。行きたければ行けばいい。私は、雪崩講習を受け、ビーコン・ゾンデ・スコップをもって、仲間と一緒に行くことをすすめる。バックカントリーでの救助費用は、そこに出かけたのは君の責任だから、当然、すべて君の負担になる可能性がある。わかったね。」

この「思想」は、カナダではかなり普遍的であるようだ。カナディアン・アバランチ・センターのオフィスマネージャー、エバン・マナーズも、新田裕之氏のインタビューに対して次のように答えている。

「・・私たちの使命は、人々に命令を与えるのではなく、彼ら自身が自分たちで判断するための材料と手段を提供することなのです。私たちは『今日は危険すぎるから、山には行くな』とは決して言いません。彼らにしかるべき情報を与え、彼ら自身による判断の手助けをするのです。私たちは個人の能力を信じ、権利を尊重しています」(『備えあれば憂いなし』新田裕之 Powder 1999 Vol.6)

約40年前、ヨーロッパの登山の特徴の一つとして紹介された考え方にも、この「思想」との共通認識が感じられる。

・・第2に、個人の自由の問題。登山を法的に規制した国はどこにもない。どんなに危険な岩場でも登るのは自由、忠告はするが、中止させる権限を持つ者はいない。極端な表現をすれば、自殺的登山でも、本人の意思なら感知せず、ということだ。(本多勝一「アルプスの山と人」『朝日新聞』1963年12月夕刊)

この「思想」が1つの文化として日本社会で認知されることを、これまで登山にかかわってきた1人のクライマーとして、また、これからも日本のバックカントリーを滑る1人のパウダーフリークとして私は心から願う。そして、これらの先人たちの「思想」に敬意を表しながら、私たちの国でも起きてほしい「公正な論争」のために、頭の中をもう少し開示しておきたい。

大人(自分のことは自分で判断できる人、または、その段階に達していなければならい人)の行動については、たとえ無謀すぎると他者に判断されるような行動であっても、強制されることのない個人の持続的な意思であることが明らかで、かつ、他者の「個人の自由」を侵害するものでない限りにおいては、その「自己決定権」、すなわち個人の意思は尊重されなければならない。

その行動が明らかに本人の無知による決定であった場合でも、行動の結果と責任は本人にのみ帰すべきものである。これを止める権利を他者は保有していない。もちろん、適切な忠告を伝える他者がその人の周囲にいることは切に望む。

しかしながら、他者が本人の無知につけ込むことは、他者の「自己決定権」への侵害である。この非は言論はもちろん法によっても正すことができるであろう。

一方、他者による批判や啓蒙もまた「個人の意思」として尊重される。しかし、この手段はもっぱら言論によるべきものである。強制力のある法を手段とする時には十分な検討を必要とする。たとえば、「自分には無知・無謀に見えても、実は『可能だ』という正しい直感に基づく行動かもしれない」あるいは「死を賭した計画なら止めることはできない」などと考えてみるべきである。もし不当に法を手段とした他者は、その行為がたとえ間接的なものであっても、自らもまた法によって裁かれることを甘受する必要がある。必要なものは強制ではなく啓蒙である。

言いたいこともそろそろ尽きてきた。最後に、ある言葉を紹介して本稿を終わる。

それは「冒険」の明快な定義である。共感する者たちの心を揺らし、その魂を鮮やかに映し出す言葉。これからも「冒険」の遺伝子たちが語り継いでいくであろうその言葉は、ある人間の肉体を通して、過去のある日に語られたのであった。

・・・「冒険とはなにか」というと欠かせない条件は、第一に危険があること。第二に主体性があること。たとえば徴兵されて戦場へ行ったら、これは危険があっても主体性がないから、冒険じゃない。だから「危険」と「主体性」、この二つがあればなんでも冒険なのですよ、良かろうが悪かろうが。価値観は無関係。(本多勝一・武田文男編『植村直己の冒険』(朝日文庫))           

その日は「日差しの美しい午後だった」のかもしれない、半世紀以上を経ていまなお多くの尊敬を集めるある言葉が語られた時のように。

註:HP掲載にあたって、元原稿を一部変更した。なお、元原稿の執筆時点では、筆者は、本多勝一さんへの尊敬と信頼を保持している状態にあった。

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