管理人の論考

本多勝一氏とB氏の意見書を批判する。


以下は、弘前大学医学部山岳部遭難訴訟における本多勝一氏とB氏のふるまいを批判した私のレポートである。2002年10月26日付けで作成した本レポートは、その後、この裁判の法廷で陳述され、乙第37号証となった。

掲載にあたって、原文中の個人名を特定可能な部分については変更を加えたが、本多勝一さんについては、その社会的影響力に照らし、実名をあげて批判すべきと判断した。すでに何度かコメントしてきたが、本ページでの本多さんの反論を心より切望している。


本多勝一氏とB氏の意見書を批判する。

東海山岳会会員
宗宮誠祐

 

1.本書作成までの経緯

私の弘前大学医学部山岳部遭難訴訟との直接的なかかわりの起点は、平成12年8月の記録閲覧でした。当時、私は沢登り裁判の被告という立場にあり、自分の裁判の参考になればという理由で裁判記録を閲覧しました。しかし、原告側証拠の中に、私の所属山岳会である東海山岳会の会則や会員の意見書とされる文書があるのを知りたいへん驚きました。私は、集会などでこの事実を報告しましたが、ほとんどの会員にとっても全く初耳の話でした。

私たちは、事故についての事実関係さえも把握していないにもかかわらず、知らないうちに「東海山岳会は、会をあげて原告側サポーターである」と第三者に判断されうる可能性のある立場に、立たされていることは許容できないとして、東海山岳会の総意をもって東海山岳会会長 ( 当時の愛知県勤労者山岳連盟会長) 名の抗議文 ( 乙第23号証 ) を原告宛に送付しました。さらに、このような状況を招くことになった原因として看過できないB氏に対しては、当時の運営委員長が書面で抗議を行なっています。このような経緯で一種の「利害関係者」となった私は、その後も傍聴を続け現在に至っています。

傍聴と記録閲覧を通じて、私は、本多勝一氏の意見書(甲第88号証)やB氏の意見書(甲第24号証)と証言などには、多くの問題点があると考えておりました。しかし、一審裁判所は、このお二人の意見に左右されることなく、丁寧な事実認定と的確な論理によって、総合的に納得できる判決を言い渡しています。一審判決を拝読した私は、このような公正な法的判断を受けることは、市民としてはもちろん登山者としても大きな喜びであると思っておりました。また、本多勝一氏とB氏も、この良識ある判決文をきっと受け入れられるあろうと楽観してもおりました。

しかし、控訴審記録を閲覧しますと、本多勝一氏は、「山を知らない裁判官による惨澹たる判決」との回答文を控訴人側に託したようです。また、B氏も、計画書についての裁判所の見解のみを取り上げて、「このままこの判決を許してしまうわけにはいかないと思っている・・」と述べています。さらに、控訴人側準備書面は、本多勝一氏らを「登山界の先賢」と賞賛し、この妥当な判決を「登山の経験則に乖離した独断に満ちたもの」と断定し「山岳部の先輩らにも法的責任あり」と不作為不法行為を主張して譲りません。

私は、ほとんど冬山の経験がありませんし、事故現場も知りませんので、発言するのは控えるべきと思料しておりましたが、さすがにこのような不可思議な現象を登山者の端くれとして、看過すべきではないと考えました。登山事故の法的問題について考えコミットしてゆくことが、沢登り死亡事故の当事者としての責務であるというご指摘もありました。よって、以下に、登山者の視点から、ある大学部山岳部冬山合宿(以下、本山行と言います)における本多勝一氏の甲第88号証とB氏の甲第24号証の内包する問題点の幾つかを指摘することに致します。

2 本山行が非営利・成人・自主登山型であることは論理的必然です。

A.本山行は非営利型登山です。

これについては控訴人側も反証がありません。

B.本山行は成人型登山です。

本山行パーティは参加者の全員が成人かそれに近い年齢に達しています。よって、本山行は、未成年型登山ではなく成人型登山に分類されます。しかしながら、実年齢のみを根結拠にそのように分類することには若干の問題があることは事実です。

まず、検討しなければならないのは、年齢的には20歳に達していても、その人の知的能力が通常の成人の平均水準を下回っている可能性です。しかし、本山行パーティは全員が、国立大学医学部の学生であるので、彼らの知的能力は少なくとも通常の成人の平均水準を下回ると言うことはないはずです。

次に、もし「成人として備えておくべき判断能力」があったとしても、自ら判断可能なデータの取得が困難なケースについては、一定の考慮がなされなければなりません。例えば、冬山で滑落死亡した成人が、雪の降らない環境で育った海外からの留学生で、よく事情のわからないまま山岳部へ入部した直後に、適切な説明も受けずにつれてゆかれた生まれて初めての雪山で遭難したのであれば、「そもそも冬山の内包する危険についての判断能力がなかった」という主張も一理あると言えるでしょう。しかし、冬期に積雪のある日本で生まれ育ち、自ら進んで「ある大学山岳部」に入部して活動していた国立大学医学部の学生諸君は、この条件にあてはまりません。彼らは冬山の一般的危険性や本山行のリスクについての判断材料を、十分に持っていたはずなのです。その理由を以下に列挙することに致します。

1、日本では、冬山の内包する危険については、登山をしない一般人にも公知の事実です。例えば、保険会社は冬山などの山岳登攀中の事故は、割り増し保険料を支払わない限り保険金を支払いません。これは、保険会社をして、冬山登山などの山岳登攀は一般のスポーツに比べて高い料率を設定する必要があると認識させる程度にまで、山岳遭難事故が多発し、そのことが公知の事実になっていることを意味します。まして、現役の山岳部部員の入手できる冬山の危険に関するデータが一般人を下回るとは到底考えられません。

2、山岳部入部は、学生に課せられた義務でもありません。よって、自己責任を問われる成人として、冬山での活動を対象とする山岳部入部を自由意思で決定した時点で、新入部員と言えども、死亡事故がかなりの確率で起こりうる場所に足を踏み入れたことを、知るべき立場にあると言わなければなりません。また、同時に家族に対して、自分の引き受けたリスクを説明する責任も発生しているのです。

3、本山行のコースと必要な装備については、山岳書籍などからの一般情報以外にも、先輩の登山記録もあり、実際にこのコースの積雪期体験のある先輩が身近にいたのですから、新人と言えどもリーダーなどにまかせきりにせず、自主的にそれらの生きたデータを取得して検討し、自分の参加する計画のリスクについて把握できたはずですし、把握しておくべきだったと思料します。特に、サブリーダー役を引き受けたZ君は、リーダーを助けてより高度なリスク分析をするべき立場であり、たとえ冬山一回の経験しかなくとも、すでに数年を山岳部に在籍していた彼は、主体的にふるまえばそれが十分可能だったと思料します。

以上の理由で、参加者全員は、本件山行のリスクを自ら検討する能力を身につけ、実際にそれをなすべき立場にあったのです。よって、本山行は、名目的にも実質的にも「成人型登山」となります。

C.本山行は主体的な自己決定にもとづく自主登山です。

すでに述べたように、任意団体の「大学山岳部」に自ら進んで入部した成人は、入部決定の段階でも山岳部活動における生命のリスクについて、知るべき立場にあったと言えます。しかしながら、実際には、クラブの正確な内情は入部してからでないとハッキリとはわかりません。また、入部時点では、冬山未経験の部員もいるでしょう。よって、入部後に、クラブの雰囲気や安全対策に疑問を感じる場合や「冬山は予想以上に危険なスポーツだ」と考えが変わることもあるでしょうし、「このリーダーは危険だ」と判断することもあるでしょう。このような時には、計画参加への選択権やリスクについて説明を受けたり発言する権利が保証されなければなりません。もちろん、円満に退部する権利もです。これらの権利が侵害され、嫌がるのを無理矢理に参加させられたケースがあった時は、典型的自主登山である大学山岳部の登山であっても、もはや「自主登山」とは言えず、それは「強制登山」とでもいうべきものです。法的責任追及もあり得るでしょう。しかしながら、本山行においては、事故報告書や証言などから判断して、サブリーダー役のZ君はコースの決定・新人への訓練・準備に積極的に関与しており、少なくとも、Z君が無理矢理にサブリーダー役を強制させられたという証拠、或いは、新人2名が無理矢理参加を強制された証拠は提出されていません。
そもそも、大学山岳部はお金を支払って参加するガイド登山などとは異なり部員達の無償の好意によって運営されており、全部員が力をあわせて自主的に活動することが組織の維持に必要不可欠なのです。よって、本山行の参加者は、すべてを運転手任せにすることの許される有料バスの乗客ではありません。ですから、新人と言えども積極的に先輩の話を聞いたり、部報やその他の文献にあたり、主体的に現場でのノウハウを身に付けなければなりません。まして、次期部長候補でサブリーダー役を引き受けたZ君は、下級生の安全を確保する立場にあったのです。実際、彼は、新人に事前訓練を施したり、本山行中も下級生の面倒を見るなどの保護者的地位にあったのです。

よって、本件山行は「特定の者が一応リーダーとなっていても他の仲間も山行計画に関与するなど積極的に登山に関与している自主登山型に分類されなければなりません。

D.事故現場においてもZ君は意思に反した行動を強制されていません。

いくら、本山行の計画時点では、参加を自由意思で自己決定していても、合宿中の個々の場面において、他者の強制があり、その因果関係の元に身体生命に損害が発生した場合は、話は別です。例えば、全員がヒマラヤ経験者による社会人による自主登山でも、「下山は雪崩れの危険がある」と反対する隊員を、無理矢理にリーダー命令で下山させてしまい雪崩で死亡させたような場合は、リーダーの法的責任を検討すべきです。しかし、本山行を通して、そのような強制の形跡はありません。本山行は、登山の計画段階から実際の登山中のすべての場面おいて自主登山だったと言う判断は妥当と思料します。少なくとも、これを否定する証拠は見当たりません。

E.本多勝一氏の意見書は非論理的かつアンフェアです。

本多勝一氏は、本山行は「引率登山」と主張しています。しかしながら、例えば、この遭難の検証記事「意識の欠如」(甲第14号証)には「(メンバーは)自分の意思で合宿に参加して事故を起こしている。『引率登山』ではなく、いわば『自主登山』である。」という記載があります。Bまた、浦和地裁の辻次郎判事も、論文「登山事故の法的責任(上)」(判例タイムズ社)で「自主登山とは、大学山岳部の仲間同士の場合、個人的な登山愛好者や社会人山岳会が互いに山仲間として登る場合など、特定の者が一応リーダーとなっていても他の仲間も山行計画に関与する驍ネど積極的に登山に関与している場合である。」と述べています。そして、極めて重要なことは、このお二人の意見が、そもそも本多勝一氏の理論に依拠しているという事実です。本多理論によっ本山行を論理的に分類する限りは、本山行は明らかに自主登山に分類せざるを得ないのです。

本多氏の原文から「主体的な登山というには一定の実力が必要」という前提条件を読み取ることはできません。普通の日本語能力の持主にこの原文を読んでもらってさらにこの遭難の概要を説明し、「自主登山か、引率登山か」の質問をすれば、「自主登山です」と答えるであろうことは、統計学の検定に耐えうる「事実」と思料します。本多勝一氏は、本山行をなんとか「引率登山」に分類したい、しかし自分の考えが変わったことは認めない、という矛盾を解消するために、限定条件を後で追加するという言動を取ったという仮説は成立しうると思料します。

例えば、彼は「個人の冒険を規制すべきではないし、第一どんな大ベテランでも遭難の可能性をゼロにできないのですから、主体性の問題になってきます。たとえ高校生であっても、個人の意志で雪山へ行くのは抑えられないと思うからです。個人で山へ行く場合は、学校も干渉する権利はないと思いますよ。・・・」「リーダーは何をしていたか」で述べているのですから。

3 登山事故裁判に関する辻論文と名古屋高等裁判所の判例

以上の「二、AからE」の検討により、本山行はやはり「自主・非営利・成人」型に必然的に分類されます。そして、このタイプに対する法的判断の参考例については、すでに以下の二つの見識があります。

1、前記辻判事の論文によれば「自主・非営利・成人」型のリーダーの注意義務は最も低いものになります。辻判事の言う注意義務はリーダーの新人に対する注意義務です。よって。リーダーのサブリーダーに対する注意義務はさらに低いものになるでしょう。

2、2001年7月に名古屋高等裁判所で確定した私の神崎川事故裁判において、一審判決はリーダーについて以下のように判示しています。

1.リーダーについて
まず、前提として、登山パ-ティにおけるリーダーについて検討するに、リーダーとは登山の際に生じる様々な危険に適切に対処し、登山を成功に導くために、パーティーを指揮統率する立場の者であり、リーダーは、コースの選択、変更、休止、登山の中止などにノ関し、他のメンバーより強い決定権限を持つが、その反面として、危険の回避に関し、より高度な注意義務を負うものである(このようなリーダーの地位は、他のメンバーとの関係では、一種の保護者的地位ということができる)。そして、右のリーダーの権限及び注意義務の発生根拠、リーダーとメンバーとの身分関係や、メンバー間の合意などに求められ、また、リーダーの権限の強さ及び注意義務の程度は、右の身分関係やパーティーの性格など(引率登山であるか、自主登山であるか、営利を目的としたものであるか、参加者が成年であるか未成年であるかなど)によって、自ずから異なるものである。
平成10年(ワ)第894号損害賠償請求事件判決書より

よって、いわゆる「自主・非営利・成人」型の私の事故において、事実上のリーダーとされた私の法的責任を否定したこの判例を尊重すると、本山行におけるサブリーダー役であったZ君に対するリーダーの注意義務の程度は非常に低いものになると思料します。

さらに、事故現場の具体的な状況においては、Z君は、リーダーのサポートがなくとも自分の実力だけで十分に安全にその場を通過することが可能だったと思われます。そもそも、サポートを受けなくとも本人の実力で安全を確保できるケースに対してまでリーダーが面倒を見る必要はないという見解は成立しうると思料します。よって、この仮定が正しければ、この事故現場での滑落については、リーダーのサブリーダーへの注意義務そのものが、もともと存在しないと思料します。

4 ロープの不携帯が事故の本質原因であるとする主張は失当である。

B氏らの「事故を減らすために登山者はロープを携行してほしい」と言う願いは正しい主張です。しかしながら、その啓蒙活動と本山行中の事故の具体的状況をリンクさせることはあまりに無理があります。なぜなら、実際問題として、事故現場には、使用に耐えうる複数本の新しいし登山ロープが存在していました。この極めて幸運な偶然のおかげで、因果関係的には、ロープの不携帯という「不心得」は、論理的にはあくまでも事故の背景事情とするほかはなく、この不携帯を事故の本質原因とする主張は失当、かつ、今後の事故防止という観点のみに囚われた不当な主張とならざるを得ないのです。

繰り返しになりますが、使用に耐えうる複数本のロープが事故現場に存在したという事実の前には、「冬山にロープは不必要というような不届きな態度こそが、事故の本質原因である。このような不心得者は懲らしめ他山の石としなければならぬ。」という思いを持つ方がある割合で発生することの是非は別として、少なくとも、この感情を事故原因評価の論理過程に持ち込むことは失当です。事故分析はあくまで論理と事実によって粛々と行なわれる必要があります。事故反省会での発言や山岳雑誌での啓蒙記事であれば、前記のような意見も許容範囲ですが、法的責任を審議する法廷には全くなじまないのです。登山界を代表する公的立場の方であるからこそ、他者の人権に影響を及ぼす可能性のある法廷に意見書を提出して遭難の責任について言及する以上は、民法709条の成立要件、特に因果関係にはあらかじめ目を通すべきです。

ロープ不携帯は、一審裁判所が正しく見抜かれたように、本山行の具体的状況においては、あくまでも事故の背景事情、遠因です。真っ当な事故報告書であれば、ロープ不携帯は、事故の直接原因の項目ではなく、「本事故の潜在的な問題点」あるいは、「今後の事故防止対策として」の項目に記載されることになるはずです。ロープ不携帯が、「事故報告書」の「事故の直因」の項目に記載されうるのは、この事故が例えば以下の状況下で発生していた場合でしょう。

1、このパーティが、新人の転倒後も引き返さずにロープなしで前進を続け、天候・雪質・斜度・体調・力量から判断して、ロープで確保しなければ極めて高い確率で滑落事故が発生するような斜面にさしかかったにもかかわらず、その斜面の危険性を把握できずに漫然と登高を続けて、やがて滑落すべくしてZ君が滑落した場合。

2、下降地点にあったロープが老朽化していて、過重に耐えきれない程痛んでいるとZ君が判断し、やむなくロープに頼らず、3点支持で慎重に降りていたが、その斜面の下降が彼の力量では極めて困難であったために、そのことが原因で滑落した場合。

3、下降地時に、ロープを使用しなければならない程にまで新人のねんざが悪化していたが、残置ロープがなかったためにやむおえずZ君が介助しながら下降している時に、よろけた新人を支えようとしてZ君がバランスを崩し滑落した場合

よって、事故検討会などで「事故の本質的原因はロープを持参しなかったことにあります」(B意見書、26頁)という意見が出されたとしても、この説は論理的に一定レベルにある事故調査委員会においては、辛うじて事故の背景事情や今後の事故防止の項目においてのみ採用可能な意見なのです。

まして、ロープの存在と言う本山行の具体的な事実を無視するかのような「ロープ不携帯の計画を制止しなかった先輩には法的責任あり」という主張は訴権の濫用の可能性さえあるという仮説は検討に値すると思料します。

5 登山者の視点からの事故現場の下降難度とZ君の行動について

事故現場の具体的な下降状況とZ君の関係は以下のようでした。

1、事故現場はすでに前日に通過した場所であったので、その場所の危険性を知りうる立場にあった。

2、すでに何ケ所か固定ロープのある斜面下降を経験後にこの現場に到達した。

3、事故時の天気は快晴無風で、現場の状況を把握できる条件に恵まれていた。

4、斜面はアイスバーンではなく新雪で、他者のステップもあり、難易度は高いとはいえなかった。

5、新しい使用に耐えるロープがそこにあり、それを認識し、かつ、これを利用できる立場にあった。

6、リーダーを待って相談することが可能な時間的空間的余裕があった。

7、 靴やアイゼンの不具合もなく体調も良かった。

8、下降の途中で振り返り、新人に対して、「ロープは掴まずに下降しろ」と指示する余裕があった。この時、本人もロープを掴んではいなかった。

9、事故現場は、Z君より実力に劣り、かつ、事故で動揺していたと思われる新人でさえも、3点支持とロープを手がかりとする安全策だけで無事に通過したと推定可能である。

10、ビデオ撮影報告書(甲第28号証)第2頁の写真は、Z君は滑落地点までのかなりの距離を、ロープを掴まずにこの事故斜面をすでに無事下降したことを意味する。また、この滑落地点が、ロープなしで無事に通過したそれ以前の部分に比べて危険度が高い特徴的な場所(例えば、この部分のみはアイスバーンで滑りやすかったとか、露岩で足を取られやすかったなど)であったという報告はない。よって、滑落原因は斜面の難易度とは考えにくい。


よって、やはりZ君が一歩一歩を慎重を期して下降していれば三点支持とロープを手がかりと利用することで十分に安全に下降できたと原審が認定したことは極めて妥当と思われます。また、リーダーも、Z君と同様に事故現場の難易度を良く知っていたわけでから、その難易度とその日のZ君の実力を比較計量すれば、ストップをかけなかったことが注意義務違反に問われるレベルに達していたとは到底考えられません。このことは、B意見書の随所に見られる「Z君のミスを極めて過小に評価するベクトル」は、公正な事故分析を妨げる「恣意的な主観」あるいは論理的問題性に原因した「錯誤」と言わざるをえないとする私の主張の根拠の一つでもあります。

ところで、仮に残置ロープにプルージックをセットして下降すれば、本山行パーティはZ君の滑落をほぼ確実に防止できたでしょう。(なにしろ、そこにあったのは古い老朽化したロープではなく、使用に耐えうる新しいロープですし、この技術はコンテニュアス登攀とは異なりそれ程の技術的習熟度を必要としません)。

これと同様に、一般家庭の急な階段を利用する時も、階段の手すりに自己確保をセットして登下降すれば階段から転げ落ちて死亡する事故をほぼ完全に防ぐことができますし、凍結した駅の階段を下降する時もロープを使用して自己確保を取った方がより安全です。しかし、この2例において通常そこまでの安全策を取る人は少ないはずです。よって、事故現場が、少なくともZ君にとって残置ロープにプルージックをセットしなければならないほど危険だったという主張をするのであれば、一般論ではなく、本山行の具体的状況下での、事故斜面の下降難度とZ君の雪斜面下降能力との関係について詳細に説明して、Z君の実力ではロープなしでは危険だったことや、この場所が一般登山者ならほとんどの人がロープ固定とプルージックなどによって通過する場所だったことなどを立証する必要があります。しかし、そのような証明はなされていません。

むしろ、上記の1から10の根拠に照らせば、本件の具体的条件下での45度程度の雪斜面の下降難度を、体調の良好な若い成人登山者(ロッククライミングも経験した)の運動神経と比較して評価する時、三点支持とフィックスロープを手がかりとして、あくまで慎重に一歩づつ下れば滑落の心配はまず起こり得ないという判断は、登山者から見ても、妥当な判断です。

また、Z君が、「ロープをつかまずに降りろ」と指示したと言うことは、彼自身も、事故現場を自分より実力の劣る新人に「ロープをつかまずに降りろ」と指示しても問題のない程度に安全な場所だと判断していたと評価するべきですし、この彼の判断は、上記の1から10の根拠と登山の経験則に照らして、妥当な判断だと思料します。

六、その他の意見

A.本山行ルートを登るために大量のロープを利用する登山方式である、極地法が採用されることは稀と思います。よって、極地法を持ち出して、まるで初心者がこのルートを登る時の「お手本」であるように言及する態度は、事故現場にあった残置ロープの具体的状況についての主張と同様に、批判されなければなりません。少なくとも、冬に入山する初心者パーティの何割程度が極地法を採用しているかのデータを開示する必要があります。

B、B氏はリーダーのロープ不要論に対して「正面から反論し、喧嘩になっても考え直させるだけの経験、力量、立場はZ君になかったと思います」(B意見書、21頁)と述べています。しかし、B氏はある大学部山岳部内部事情を知る立場になく、この発言は不適切な発言です。

C、本多勝一氏は、判決文に「ロープの不携帯については、注意義務違反とまては言えないが、安易で無謀な行動であった」という文言を欲したのかも知れません。しかし、そこまで言及しなかったからと言って、法的判断に基づいて公正な判決を言い渡した裁判官を「山に無知な裁判官による惨澹たる判決」と一方的に非難する理由にはなりません。これだけの強い言葉を使用するのなら、少なくとも具体的根拠をあげて批判すべきです。

D、控訴人準備書面に、「・・これは、山岳関係者が、こぞって冬の奥穂高岳に入るルートにロープは必携で、その指導を怠ったある大学山岳部OB、先輩、リーダーの正当性を支持することを拒否しているからである。・・」との陳述があります。しかし、少なくとも私は「ある大学山岳部OB、先輩、リーダーの正当性を支持することを拒否」などしていません。むしろ「事実を正確に把握せずに持論の主張のみを優先している」と言わざるを得ない方々を支持することを拒否し、総合的に見て妥当な一審判決を支持します。控訴人側は、「沢登り事故の元被告の宗宮は被告側の内部者に等しい」とおっしゃるかもしれませんが、もし多くの山岳関係者が一審判決とこの控訴人準備書面を読み比べれば、結果は自ずと明らかになると思料します(一審判決を支持するという形で)。

さらに、付言すれば、当該準備書面の主張が正しいことを疎明するには、少なくとも

1、多くの山岳関係者が判決文と当該準備書面をまだ読み比べていない、

2、読み比べたものの、当該準備書面や本多勝一氏らの非論理性と裁判所の論理レベルを比較計量し、裁判所の見識に信頼して発言する必要を感じていない、

3、意見を述べる必要性を感じるが他者の人権にかかわるので自重している、あるいは、

4、被控訴人側が、そもそも登山関係者に依頼していない、等の可能性につい一定の検討がなされていなければなりません。

E、本件山行の事前計画に問題点があったことは否めません。しかし、幸運にも他パーティの使用可能なローブが存在した事実の前には、これらの問題は背景事情とせざるをえません。そして、この背景事情の道義的責任については、このクラブ全体が共同して負担すべきものであって、リーダーや先輩のみに負担させようとすることは間違った判断です。まして、法的責任の認定は、社会科学論文における因子分析と同様、滑落とリーダーらの過失の間に、厳密な因果関係が必要となります。よって、コース選定・事前準備・メンバー構成・装備などの間接的な因子によって、関係者に賠償金を求めることは、本件の具体的状況においては、もともと不可能な行為なのです。

ある人が「本多勝一氏とB氏は、自ら論理的な事故分析についての経験不足や感情論あるいは持論の披瀝に囚われるあまり、社会科学的な因子分析の経験則を無視し、将来の事故防止という視点にのみ目を奪われて本末転倒の判断をなした」と言う批判を為したとしたら、それは傾聴すべき意見と言わざるを得ないでしょう。登山の大先輩には、誠に非礼で極めて恐縮ではありますが、ぜひもう一度ご主張の再検討をなさって下さい、とお願い申し上げざるを得ません。

7 最後に

高い志の半ばで亡くなったZ君の無念や最愛のご家族を亡くされた御遺族の心中は筆舌に尽し難いものであると拝察いたしております。

しかしながら、登山活動は、危険回避能力の獲得のためには「危険な現場」に接近しなければならないというジレンマを内包しています。そして、この能力を少しでも安全に獲得するには、自分よりも経験の高い者からの「現場での教育」が必要不可欠です。大学山岳部や社会人山岳会は、「登山は元々危険なものであり遭難は自己責任」という暗黙の了解の元で、先輩から後輩への「好意の無償のバトンタッチ」という手段によって、この作業を為して今日に至っています。よって、自主的な登山中の事故にまで、リーダーや関係者に賠償金を支払わせることは、経験者に「初心者とは山行を共にしないベクトル」を生じさせ、統計的結果として今後の登山の安全度をかえって減少させるでしょう。

今日の登山事故の状況を鑑みる時、もはや営利目的の登山には法的規制が必要という見識は尊重されるべきです。しかし、自主登山は、本多勝一氏がかつて主張されたように、法的規制はなじまいのです。私は、主体的登山におけるリスク回避さえ、あたかも法的強制に頼ろうとするかのような考え方は間違っていると主張いたします。登山事故防止のみを最優先するこの思想は、これまで受け継がれてきた登山界の伝統的な理念と危険回避能力育成のシステムを破綻させる重大な危険をはらんでいます。一登山者として断じて承服できません。

少なくとも参加者の自由意思による主体的な登山の安全は、啓蒙活動(事故検討会での峻烈な批判もこれに含まれます)による登山者自らの判断する知恵によってのみ確保されてゆくべきものなのです。圧倒的に経験の高いリーダーによる初心者対象の講習会や有料のガイド登山中の事故である場合は法的責任の追求もやむおえませんが、主体的な登山の結果については、やはり本人達の自己責任と言わざるをえないと思料しております。

ご家族におかれましては、少なくとも主体的登山であった本山行の法的責任については、この判決を受け止めていただければと願っております。人類愛に溢れ医師としての将来を嘱望された亡きZ君の御冥福を心よりお祈りし、最愛のご家族を失われた御遺族に心より哀悼の意を捧げます。

以上

2002年10月26日


註1: 原本は名古屋地方裁判所で閲覧可能です。実名でメールをいただければ閲覧に必要な情報をメールします。

註2:ぼくがこのレポートで批判したBさんは、僕のレポートとxさん(僕の山仲間)の意見書(乙36号証)に対して、「x・宗宮両氏の意見書に対する私の意見」(甲第98号証)を法廷で陳述されました。Bさんのこの見識については、Bさんの第一意見書(甲第24号証)と共に本ページのYour opinionsに掲載する予定です。

註3:登山事故裁判における登山者の陳述と証言は、判決に極めて大きな影響を与えます。多くの裁判官の保有する登山知識や登山の実体験はそれほど多くはないので、「登山の専門家」の意見を尊重する傾向があるようです。よって、もし証言台に立つ登山者の見解における錯誤や思い込みが許容限度を超えると、その不適切な陳述が原因となって不当な判決が下される可能性が増加してしまうでしょう。

その可能性を減少させるためのひとつの手段として、登山関係者の陳述と証言は、必ず、広く公開され、他の登山者によって検証されるべきだぼくは思うのです。自分の意見が「同業者」に情報公開されるという事実は、その正確性により資することになるのだと感じるからです。

これらの他者による査読結果が、同様に公開され、さらなる多くの他者によって再検証され、これらの一連の作業を少しづつ積み重ねていけば、いつの日か、登山事故の法的責任はどうあるべきかについて、ぼくたちの社会はある一定の認識を共有できるはずなのです。

というようなわけで、今回は、この考えを、ぼく自身の乙37号証に適用し、本ページで公開することにした次第です。

追記

意見書公開が判決への影響を正常化するという意味であるのなら、本当は、公開は判決前に行われる必要があるのではないのか?という問いは論理的です。しかし、係争中の裁判での書面や証言をどの時点でどの程度公開するのかは非常に判断が難しいのです。裁判当事者ならともかくも第三者によるリアルタイムでの公開の是非については、裁判公開の原則があるとはいえ、「問題が難しすぎてとうてい判断できない」としかいいようがありません。そんなわけで、今回の公開も判決後とせざるをえませんでした。どうか御海容ください。

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