寄稿

大杉谷吊橋事故の損害賠償請求訴訟とその影響



以下は、数度のメールのやりとりをへて、本HPに掲載させていただけることになった大台ヶ原・大峰の自然を守る会・会長の田村義彦さんのご論文「大杉谷吊橋事故の損害賠償請求訴訟とその影響」である。この裁判事例は、本HP「登山事故関係など主要判例一覧」のNo. 009で紹介していた。しかし、田村さんにご指摘いただくまで、原告主張と判決についての重大な問題性に全く気づくことができなかった。まさに、我が身の不明、愧いるばかりである。

ぜひとも、判例タイムス513号と判例時報1105号の一審判決及び判例時報1166号の控訴審判決を読んでみていだたきたい。私は、両者を読み比べて、田村さんのご主張趣意の合理性は明らである、と思料するものである。

なお、ウェブ上で文字化けなどの誤りが発生したとしたら、それらはすべて私のミスである。

2005.06.14



 大台ヶ原・大峰の自然を守る会
田村 義彦
2005年5月30日

[要約]
1979年、大杉谷で観光サークルが吊橋切断死亡事故を起した。遺族は国と三重県の管理責任を求めて提訴した。第一審と控訴審の大阪高裁は、国・三重県の管理責任を認めたが、最高裁は、三重県については大阪高裁の判断を是認したが、国については原判決を破棄し、第一審判決を取り消し、遺族の請求を棄却した。
この訴訟によって行政内部では、“利用者の安全”が国立山岳公園の本質論を越えた至上命題になった。行政の責任回避のための過剰施設整備が安全の美名のもとに各地で行われ、原生的自然が破壊され人工化されることになった。そのきっかけになったのがこの裁判である。

◆ はじめに
 いささか旧聞に属するが、1979年9月の大杉谷吊橋事故について、筆者は『自然保護辞典』�@[山と森林] 緑風出版発行(1989年)に「過剰施設整備と大杉谷の自然」と題して批判を書いたが、この度、ウエブサイト「登山事故の法的責任について考えるページ」に投稿するために、緑風出版に相談したうえで上記の拙文を引用しながら改めて要約を書いた。一行でも短くするために、意を尽くせば数十行になる重要なテーマをあえて十行前後に要約したが、それでも冗長になったことを最初にお詫びする。詳細な議論はあとに譲る。

【1】 大台ヶ原・大杉谷吊橋事故

(1)  事故の概要
1979年9月15日、吉野熊野国立公園大台ヶ原山・大杉谷の上流から二つ目の堂倉吊橋(全長46m)において、自らは登山サークルと称する大阪の観光サークルの一行52名が「通行制限。一人ずつゆすらないで静かに渡って下さい。三重県・宮川村・大台警察署」の警告板を無視し、しかも、まだ渡りきっていない先行パーティ2名の制止をさえぎって、強引に8名もの多人数で渡橋しようとしたため、吊橋が10名の荷重に耐えきれず、直径21・5mmのメインワイヤー2本のうち川上側の1本が切れ、橋板が45度に傾き、1名がワイヤーにぶらさがっていたが2分後に約20m下の河原に墜落、露岩に激突死亡、1名がワイヤーに跳ねられて重症を負う事故を起した。死亡者のザックには、途中、河原で拾った岩が入っていた。

(2)  観光サークル役員会の不可解な登山観と、傲慢で甘えの権利意識
 観光サークル役員会(以下、「役員会」と書く)の実質的な責任者は、「登山と観光とスポーツから誰でも参加できる基本は発展させたい」(日本語の文法を超えた難解な文章であるが原文のまま引用する・・筆者)と言う。そして、登山と観光とスポーツを同一次元でとらえる不可解な思考から次のテーゼを導き出した。「山と自然はみんなのもの。決意を強くもてば、誰でもどこでも行ける。」「いかなる理由と事実があっても、いつでも誰でもどこでも行ける人間の権利と要求を抑圧する理由にはならない。」自然に対するこの傲慢で甘えた権利要求を、大杉谷の原生的自然はあっさり拒絶した。

「白神山地のブナ原生林を守る会」事務局長奥村清明氏は近著『白神山地ものがたり』(無明舎出版2005・3)に、白神山地について次の様に書いている。「国有林には、国民は誰でも自由に入山できる権利があるなどと、主張する人もいます。国有の施設に、国民はいつでも自由に出入りはできません。国道の真中をだれでも自由に歩くことはできません。利用するためには、どこにでもルールがあります。」

(3) 遭難の絶えない危険なコース
 大杉谷は「いつでも誰でも」楽に安全に行けるハイキングコースではない。大台ヶ原に降る年間5000ミリ近い豪雨を集めて流れ下る大杉谷は、直線距離8.4kmの間に標高差1400mの落差をもち、その間に40mから140mの滝が七つ連なり、断崖、深淵、急流に沿って険路と吊橋13本が連続する危険に満ちたコースであり、年間5~6件の転落事故が絶えない。この危険なコースに、不可解な登山観と権利意識を抱き、経験・技術ともに未熟な役員会が、ほとんど初心者の52名もの大集団を連れて入ったこと自体、事故は約束されていたと言わざるを得ない。山岳遭難というよりは登山大衆化状況のなかで生じた観光事故という方が当たっている。

(4) 無謀なスケジュールと行動
役員会は「大台ヶ原から桃ノ木小屋までのコースタイムは、地図で4時間40分です。しかし、六つのつり橋を看板(通行制限の警告板・・筆者)通り一人か二人で渡っていたら、つり橋だけで5時間もかかり、桃ノ木小屋まで夜行登山しなくてはなりません。」として、「夜行登山を避けるために、一人しか渡ってはいけない吊橋を三人で、二人しか渡ってはいけない吊橋を五人でわたることに決めた。」

一行は、朝大阪を発ち、電車・バスを乗り継いで正午前に山上駐車場に着き、その足で大杉谷を下り、夕刻、桃ノ木小屋に着こうとした。山上駐車場に正午前に着いて、その足で桃ノ木小屋まで下ることができるのは、山馴れした足の速いパーティにのみ許されることで、ほとんどが初心者の52名もの大集団には到底不可能である。

当時の大杉谷では土曜、日曜に吊橋で待たされるのは常識であった。老朽化して警告板が立っている吊橋を安全に渡るためには、時間をかけて慎重に渡るしかない。初日は山上の宿舎で一泊し、翌日早朝に出発して一日かけて大杉谷を下るのが大杉谷のルールである。それでも、1977年10月に日本自然保護協会一行22名が初日は山上で一泊、翌日早朝に発って大杉谷を下ったが、桃ノ木小屋に着いたのは午後7時であった。山馴れた一行にしてこれである。下山途中雨になり、登山道が増水に洗われて通れなくなり引き返すことは大杉谷では珍しくない。

役員会が吊橋の老朽化を無視して、時間を人数で割って“3人”“5人”を割り出したのは信じ難い暴挙である。いくらメインワイヤーが腐食していたとはとはいえ、一人ずつ渡っておればこの事故は起きなかったであろう。事故は起こるべくして起きたと言える。 

(5) 登山者の自己責任
 山で状況を判断し、行動を決定するのは登山者自身の責任で行うことであり、従ってその結果については自分が負うべきは当然である。自然の中での安全は他人につくってもらうものではなく、自分でつくるものである。

吊橋にしても、変化に富んだルートの途中に、たまたま存在する一つの部分に過ぎない。それを渡るか渡らないかは登山者の自由な判断に任せられる。誰が、いつ、何の目的で架けたかわからない吊橋を、登山者が渡った方が都合がよいから利用するだけのことである。

事故のあった吊橋は1962年頃、三重県が発電所建設工事関係者の通行のために架橋したもので、1968年に国の承認を得て登山道に組み込まれたものである。架橋後20年近く経ち、老朽化していることは、一目見れば誰にでもわかる。

(6)  不可解なリーダーシップとパートナーシップ
 不可解な登山観と権利意識をもち、登山経験・技術ともに未熟な役員会は、参加者に対しては、「どんなことがあってもパーティに遅れない決意が大事。行動中団結を乱し、参加者に動揺をもたらす発言と行動(特に経験者)は許さない。意見、発言等は、リーダーと役員会に休憩時に出す。緊急時はその限りではない。リーダー、役員会、班長に団結するのが基本。」「初心者50人~100人では、個人のリーダーがいくら経験や能力があってもまとめきれない。集団の力で運営する。」「集団の英知を引き出しまとめる立場」などと意味不明なことを言う。

「まとめきれない」ことがわかっていて、何故52名もの初心者を危険な大杉谷に連れて行ったのか。「集団の力、集団の英知」というが、それは経験ある登山者の集団で初めて言えることで、初心者にそれを求めることは役員会の責任放棄である。

「リーダー、役員会への団結」とは「服従」と同義語ではないか。服従を要求しておきながら、「まとめきれない」から皆で考えろとは、どういう精神構造なのか。初心者だけの「集団の力・英知」で登山ができるのであれば、リーダーなど最初から要らない。

(7) 集団登山の危険性とリーダーの刑事責任
 役員会は、進んで事故原因の解明に努め、主催者としての責任を全うすべき責務がある。ところが事故後、「リーダー責任」を自覚した役員会は、三重県警の取り調べに頑強に抵抗し、行政の管理責任をことさらに追求した。これでは、果たすべき自らの責任を回避するために、すべてを行政の管理責任へ転嫁しようとしたと批判されてもやむを得ないであろう。

もっとも、山岳事故の場合、他の場合であれば当然刑事責任の対象になる注意義務の懈怠による事故であっても、対象とされない場合もある。それは、登山パーティが本来危険の同意に基づいており、事故の不可抗力性、自己過失に起因することなどが違法性阻却の理由とされているからである。したがって、よほどの重過失をした自覚がなければ、捜査に抵抗する理由など全くないはずである。

《 松本深志高校の西穂高岳落雷事故の場合 》
 例えば、1967年8月、北アルプス西穂高岳登山中の長野県松本深志高校の生徒11名が落雷にうたれて死亡した事故について、長野県警は学校側の刑事責任を追及しなかった。その免責理由は、落雷という不可抗力的な事故であることのほかに、(1)登山計画に無理がなかったことと、(2)当日の行動に無理がなかったこと、をあげている。逆にいえば、登山計画と当日の行動に無理があれば学校側は刑事責任の対象になった、ということである。であるならば、無理な登山計画と無理な行動をした役員会の刑事責任は当然問われて然るべきであるが、それを追及し得なかった三重県警は明らかに職務怠慢である。

松本深志高校では2年をかけて事故原因を究明し、「集団登山は安全度を非常に高く取って、危険に近づいてはならない。安全が、その内在する危険の本質を知らずして保たれているのであるならば、それは真に安全性が確保されていることを意味しないのである。」と結論づけた。

観光サークル役員会は、主催者として、無謀な計画と行動に内在する危険性を当然知っておくべきであったにもかかわらず、これを全く知らなかった役員会の主催者責任は極めて重い。

【2】 損害賠償請求訴訟 

三重県警は役員会のリーダー刑事責任を不問に付したが、遺族は国家賠償法に基づき、三重県に対して吊橋の設置、管理の瑕疵責任を、国に対しては設置管理費用負担者としての責任を問い、連帯して6900万円の損害賠償を請求する訴訟を神戸地裁に起した。

争点は、(1)三重県の設置管理の瑕疵、(2)国立公園の事業者でない国は補助金により設置管理費用の負担者といえるか、(3)被害者の過失相殺、の3点であって、問われるべき「リーダー責任」は問われなかった。

(1) 事実誤認の第一審判決(神戸地裁)
 神戸地裁は、吊橋は自然公園法に基づいて三重県が環境庁長官の承認を受け、国立公園事業の一部の執行として設置管理したもので、三重県は腐食したメインワイヤーの交換、通行禁止または監視員の配置などにより、確実性のある具体的危険防止措置をとるべきであった、と管理に瑕疵があったと判示した。

また、国は自然公園法に基づき、吊橋の補修工事に関して補助金を交付しているが、同法の目的は、本来国が執行すべき国立公園事業について、都道府県に財源的な裏付けを確保するとともに、その執行を義務付け、かつその執行が国立公園事業としての一定の水準に適合すべきものであることの義務を課すことにあり、利用者の事故防止に資することを含むものであるから、国は国家賠償法により吊橋の設置管理費用の負担者としての責任がある、と判示した上で、死亡者は、通過制限の立看板を無視して多数で渡った過失があるとして3割を相殺し、国・三重県は連帯して4316万円を支払うよう命じた。1983年12月20日のことである。

この判決に、三重県・国が控訴し、原告らも認容額を不服として付帯控訴した。

《 事実誤認に導いた原告側の証言 》
 判決は、「証拠によれば、大杉谷線道路は、一泊二日の登山コースとしては比較的楽な、登山というよりはハイキングというべきコースであり、スカートやヒール靴をはいたままの登山者もあること、近鉄がこれを一般用の登山コースとして宣伝していること、ここ1年間1万2千名、シ-ズン中1日約5~600名の登山者が訪れること、現に本件事故当日は約400名の登山者が訪れていた。」と判示しているが、「大杉谷線道路は、一泊二日の登山コースとしては比較的楽な、登山というよりはハイキングというべきコースであり、スカートやヒール靴をはいたままの登山者もあること、」は完全な事実誤認である。裁判官が実地検証をすれば、きびしい登山コースであることはすぐわかることであり、三重県・国はそれを要求したが行われなかったのは裁判所の怠慢と言わざるを得ない。

その上、裁判官に誤った判断材料を与えたのは、役員会の事実に反する証言である。 曰く、「『通行制限、一人ずつゆすらないで静かに渡って下さい』との警告板の表示は、その文意からして、吊橋の揺れによる危険を強調するもので、ワイヤー切断の危険を警告するものではない」「通行制限の表示は、登山者の間では必ずしも遵守されず、多人数の渡橋が日常化していた」「この事実から、吊橋のメインワイヤーが荷重により切断することは夢にも思わぬ出来事であり、到底予見することのできないものであった」「会としては、事前に吊橋の渡橋方法について、通行制限が1人のところは3人で、2人のところは5人で渡橋するように打ち合わせていた。その理由は、吊橋を渡る時の心理的恐怖心を考慮して、むしろ複数名による渡橋のほうがかえって安全であると考えたからであり、右の考えには合理性がある」と。

いかに法廷技術とはいえ、よくもこれだけこじつけが言えたものである。強弁に“合理性”など全くない。大杉谷の現場検証を行わなかった裁判官はこの「作り話」を真に受けて「認定の事実」とし、「右認定を覆すに足りる証拠はない」として、三重県・国に対して、「本件吊橋を通行禁止にし、又は、同時に多人数の登山者が渡橋しないよう監視員を配置するなど、単なる前記警告板設置以上に、より確実性のある危険防止の措置を構ずべき義務が存したものというべきである」と責任を問うた。

「監視員の配置」など到底実行不可能で、現場を知らない裁判官なるが故に言える空論である。この事実誤認を覆す「証拠」はいくらでもあるにもかかわらず、裁判所はその努力を怠った。

大杉谷の吊橋は1975年の国体のときに改修した3本を除いて、残り10本はすべて老朽化しており、橋板は腐り、ワイヤーも何本かは切れたり、はずれたりしていた。その状況を見れば、警告板が「荷重制限」であることは誰にでもたやすく理解できることである。役員2人は観光サークルの機関紙に「大杉谷事故の報告」(1979・9)と題して、「事故現場に来た時、吊橋では40人からの人達が待っており、『よけ(大勢)いるな』『時間がかかるな』『ロープ(ワイヤー)が切れるのか』等話していました。」と、はっきり書いているではないか。事故現場にいた役員2名はワイヤー切断を予感していたのだ。

裁判所は、多くの事実誤認をしたが、役員の事実に反した証言の一部については、「事実認定」をしなかった。事故時の渡橋の状況について、役員は「前の者がすべて渡り終るのを確認してから渡橋を開始した」と証言したが、裁判所は、この証言を「前提証拠に照らして信用できず」としたのである。「信用できず」とは、言い換えれば、本当のことを言っているとは思えないということだから、裁判所は役員がウソをついているという心証を持ったということである。役員は法廷でありのままの真実を証言するという基本的責務を果たしていないと言わざるを得ない。

また、「多人数での渡橋の日常化」の事実も証拠もない。この作り話を観光雑誌に書いたルポライターは「ニュースソースは秘匿せざるを得ない」と断って、「1人のところは10人まで耐久力があるという論拠不明の伝説」が地元で語られていると驚くべき無責任なことを平然と書いている。その「出所が秘匿された論拠不明の伝説」を、裁判官が「証拠」に採用したとは何たることか。「10人通行可能」の出所として類推できるのは、架橋当時は10人まで渡れると言われていたようであるが、架橋後20年近く経って老朽化すれば「10人」が無理であることは誰にでもわかることだ。

大台・大峰山系を歩いて50年、大杉谷のガイドマップも書いている本会元会長米田信夫氏は、「そんな噂は聞いたことがない。」と言下に否定した。また、大杉谷の登山者の実態を誰よりも知る桃ノ木小屋の管理人は、「吊橋は1人で渡るべきである。多くても3人が限界だ。大体の登山者はきちんとその重量制限を守ってきた。」と、毎日テレビの取材に語っている。役員会が「3人」「5人」と決めた理由は、前述の如く、強行スケジュールで時間が足らなかったからで、役員会はその理由を機関紙に度々書いているではないか。「吊橋を渡る時の心理的恐怖心を考慮して、むしろ複数名による渡橋のほうがかえって安全」も、もちろん法廷技術上の「作り話」であって、それを見ぬけなかった第一審判決の責任は大きく、裁判史上に汚点を残した。

(2) 第一審判決の誤りが正されなかった控訴審(大阪高裁)
 控訴審では三重県・国が原告側の「作り話」について、「本件事故の原因は、人数制限を無視して同時に多人数が渡橋したことにある。事故当日、事故が発生するまでに100名以上の登山者が渡橋して事故は起きていない。本件事故は自損事故に等しい。吊橋の管理瑕疵に基因するものではない。」と反論した。しかし、審理のほとんどは、国の管理費用負担者としての責任論に費やされた。事故原因については判決理由にも触れられていないのは控訴審の性格から止むを得ないとしても残念である。死亡者の過失相殺が第一審の3割から4割に増え、賠償額が減額されたところに反映していると見ることもできるが、真の加害者の責任は問われなかった。

控訴審では、三重県・国の責任については第一審の判断を維持し、国が本件吊橋の設置管理のために三重県に交付した補助金は三重県の支出額の1/4に過ぎないので国家賠償法に基づく責任はない、という国の主張に対して、半額補助の費用負担者責任を認めた最高裁判例(昭和50年11月28日)を引用したうえで、国の負担割合は1/2近くに達しているので、国家賠償法の設置管理費用の負担者というべきである、と判示して国の主張を退け、過失相殺の割合を4割と増やして、国と三重県が連帯して3676万円を支払うように命じ、原告らの付帯控訴は棄却した。1985年4月26日のことである。

この判決について、三重県・国は控訴した。原告には国民の税金から「執行金」が支払われた。

(3) 国に責任なし、三重県に責任あり・・・最高裁判決
 最高裁は、三重県に対しては、大阪高裁の判断を正当と是認して、1988年12月15日に上告棄却の判断を下した。

一方、国に対しては、「国は国家賠償法にいう費用負担者には当たらないので、国が費用負担者であるという原審の判断は法令解釈適用を誤ったというべきである」として1989年10月26日、原判決(大阪高裁)を破棄し、第一審判決(神戸地裁)を取り消した。俗に言えば三重県は負けて、国は勝ったということである。遺族は請求を棄却されたので、既に「執行金」として支払われている中から国の負担分を返さなけばならないことになった。もっとも「執行金」の三重県・国の分担の割合が不明であるから、仮に全額を三重県が支払っておればそのままである。

この判決には一名の反対意見が付された。その裁判官は切れた吊橋を「総合的施設」と見たが、他の裁判官は「独立の営造物」と見て判決が下された。この論議は筆者がこの文章を書く意図から離れるので、これ以上の記述は避けるが、昨年(2004年)10月26日に発表された小池百合子環境大臣の「三位一体改革について」の新方針によって、本年(2005年)度から、国立公園については補助金を廃止して、国の直轄事業として実施することになったので、今後は、国と地方自治体との間で、補助金をめぐる責任のなすりあいはなくなるであろう。

他の判例については、『自然保護辞典』で若干触れている。

【3】 訴訟の影響 ―― 行政の責任回避・・・安全至上論と過剰施設整備

事故の翌々月、衆議院公害環境保全委員会で、日本共産党議員が環境庁の責任を追及した。環境庁自然保護局は、1983年6月「自然公園における利用者の安全対策について」と題する通知を、都道府県知事並びに国立公園管理事務所長、国立公園管理員宛に出した。

偶然にもこの年の8月には富士山で落石のため12名が死亡する事故が起きたが、この事故について、落石はあらかじめ予想できたはずで、それを放任しておいた行政の責任だ、という声が自然を知らないメディアなどから出た。行政内部では利用者の安全に対して異常なまでに神経を使うようになり、国立公園の本質論を越えた至上命題になった。各地の登山道が「通行禁止」にされ、巨額の税金を投じた過剰施設整備が安全の美名の下に各地で行われた。

例えば、岐阜県笠ヶ岳クリヤ谷の吊橋はすべて営林署が撤去した。大台ヶ原の筏場道も通行禁止になった。兵庫県の六甲山ではロックガーデンのコンクリート階段化工事が行われた。

大杉谷では、第一審の判決がまだ出ていない1980年~82年に3億7千万円の巨費を投じて、7本の吊橋を撤去、天然記念物指定の岸壁をハッパで崩して迂回路を新設、深山幽谷には似つかわしくない過剰整備を行った。そのためにかえって危険になったところも出来た。

行政の、責任回避のための安全至上論はその後更にエスカレートして、「緑のダイアモンド計画」など巨大過剰施設整備に拡大され、原生状態にこそ価値のある国立公園の亜高山帯、高山帯の自然が破壊され、人工化されることになった。そのきっかけになったのが本裁判であった。

一方、過剰整備後、「大杉谷が安全になった!」という観光資本、マスコミの宣伝によって,今まで危険だからと敬遠していた人達までが気楽にやってくるようになり、皮肉にも事故が激増した。登山大衆化現象の中で、老人・女性の疲労による事故の増加が特徴的であった。救助に動員される地元は悲鳴をあげ、入山口に「遭難救助費用原因者負担」の制札を立てた。

本会は近鉄発行の「大台ヶ原・大杉谷サニット」が遭難の一助になっていると発売中止を申し入れた。サニットを買った人は、大台ヶ原で天候が悪化し、体調が不良になっても大杉谷の宿泊費・帰路の交通費が払い戻されないため無理をして大杉谷へ下り、事故につながった。

近鉄はサニットの発売を中止し、大杉谷の宣伝を控えた。大杉谷の入山者は半減した。

◆ おわりに
大台ヶ原は昨年(2004年)、数次にわたる台風襲来を受け、通算4200ミリの豪雨に見舞われ、想像を絶する壊滅的損傷を受けた。必要以上に頑丈に作られたと見られた大杉谷の吊橋は、水勢で鉄骨・ワイヤーが折れ曲がり、長さ40mの1本が流失し、登山道は流れる岩に削られ、中流域で21ヶ所
崩壊した。大台ヶ原の自然は人間の過剰整備を25年にして拒絶して元の姿に戻した。吊橋事故と裁判をめぐる人間の愚劣さを豪雨が流し去ったように思える。

現在三重県は、復旧工事を下流から行えないので、奈良県側の上流から始めているが、今後は、環境省直轄事業となるであろう。環境省は近年、登山道の整備を、東大台周回線歩道整備に見られるように必要最低限度に行うようになった。本会は復旧工事が、25年前のような過剰整備にならないように要望書を提出する。

 大杉谷が通行可能になるのは4、5年先になるだろうと言われている。

以上


 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です