寄稿

裁判所は登山技術一般への関与に慎重な態度をとった


以下は、上坂淳一さん (京都岳連 ) による大日岳遭難事故裁判の富山地裁判決についての論考である。本論考は、Blog「大日岳事故とその法的責任を考える」の2006年5月2日付のぼくの日記『富山地裁 原告側の結果回避方法を棄却』(富山地裁は、原告側の主張した結果回避方法の中のどれを認め、どれを却下したか)」についてのコメントとして前記Blogに寄せられたものである。

上坂淳一さんの御好意により、前記Blogの2006年6月5日付け日記とあわせて、本HPにも掲載させていただけることになった。

なお、ウェブ上で文字化けなどの誤りが発生したとしたら、それらはすべて私のミスである。

2006.06.0


上坂淳一 (京都岳連)

民事訴訟の判決は時として我々一般市民にとって奇妙であったり冷ややかな印象を受けることがあります。

僕はある行政機関で民事行政というヘンテコな仕事をしています。民事登記といったほうがわかりやすいでしょうか?なぜそれがヘンテコな仕事かといえば、公権力には民事不介入原則というものがあるからです。業務としては民事事件に関与せざるを得ないわけですが、上記原則との兼ね合いで、常に自制を求められる立場にあるわけで、「民事訴訟」というのも司法機関が公権力を行使するわけですからやはりヘンテコな業務でしょう。登記も訴訟も公権力に委ねることが当然のこととされているのは、いずれの当事者からも独立し、法令に則して判断、執行する必要があるからです。

そう考えれば、今回の判決は司法が登山一般の技術を指導する(と誤解を招く)ことのないように、慎重に検討されたものと評価できます。

訴訟の構造としては、原告に適格性があり、賠償請求に相当する理由の有無を判断すれば判決は書けるわけで、原告の主張したのは遭難者(研修参加者)と遺族の損害に対して主催者(国)に賠償責任があるというものです。その論証の中で予見可能性、回避義務の程度を要件的に確定する必要があったわけですが、登山技術そのものを決定することが目的の論争ではありません。

しかも、この事故は同じグループの中でも称名川側で休憩していた者や、数分早く下山を開始した者は遭難していません。そういう点では(責任の有無は別として)極めて偶然性の高い状況、誰にでも遭難する可能性があったこと、あるいは誰も遭難しない可能性が存在したことは否めません。そして、訴訟の対象となるのは可能性ではなく、現実に発生した損害のみです。

ちなみに僕個人の技術的見解としては、雪地形は極めて複雑で、雪庇の形状を雪庇上から把握し、崩落(雪崩の一種)の可能性、発生時期を予見することは常に一定の誤差(リスク)を排除できないことから、回避するための決定的もしくは固定的な技術が存在するわけではないと考えます。純粋に技術論として考えるならば、このスク及び回避技術に関しては研修会といった登山形態は直接には影響しませんが、責任論としては重要な論点となります。

さらに個人的意見として、原告側の回避方法も被告側の回避方法も必ずしも一般的とは言えないものの、まったく効果のないものであったかといえばそうではないと思います。現実の登山では、一般的あるいは決定的ではないものの、何らかの効果があると考えられる数多の方法の中から、現場の状況に応じていくつかの方法を組み合わせて推論を立てていくという作業が繰り返されます。

例えば、原告側に「竜王岳が見通せたから云々」との主張があるのも、そういう現場状況が存在したからで、もし視界が悪ければ(状況が違えば)別の主張をしたと思われます。したがって、僕は事故当時現場にいて、経験技量ともに高度な能力を有し、自らも崩落に巻き込まれる危険性(正確な判断をする必要性)があった文登研(講師陣)の主張を先に検討するべきと考えますが、まさに裁判所はそうしたわけです。

被告側の「雪庇の規模を想定し先端から一定の距離をとる」という方法も有効性は疑問ですが、雪庇の形状を視認することができない場合には他に方法がなかったのかも知れません。

その上で、(その方法を採用するならば雪庇の規模を正確に推定する必要があるにもかかわらず)(早乙女岳より規模が大きい「可能性」があるにもかかわらず)雪庇の規模の推定を誤ったから、被告には過失がある、とした判決は司法制度上は公正なものと受け止めざるを得ません。

実を言えば、僕は判決理由の中に「決定的な回避方法があり」「登山者は常に特定の方法を採用せねばならない」などといった予断と偏見が盛り込まれるのではないかと危惧していたわけですが、この判決は理由において、あくまで特定の事件に対して法廷内の論証を根拠として判決が下されたと言えるわけで、当事者双方の心情には察するに余りあるものの、個人的には少なからず安心しています。

登山技術論の展開は期待されたものではなかったかも知れませんが、冒頭に述べた点からも職業裁判官の自制心と技能の高さにはいささか敬服する次第です。


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