管理人の論考

初心者への「説明責任」は重要である


初心者への「説明責任」は重要である

登山事故の法的責任についての被告側からの考察
        
98年12月から昨年の6月まで、私は沢で遭難した二人の仲間の御家族から損害賠償請求を受ける立場にあった。本稿では、裁判の争点の一つとなった「登山の実力のより高い側の法的責任」についての考察を述べることにしたい。

私は、事故についての事実経緯を少しでも正確に記録し、それを報告することが事故当事者の役割であると事故直後から考えてきた。そのためには論理に基づいた行動を優先する必要があった。このふるまいに対しては多くの批判と忠告を頂いた。「君は悲しくないのか」という言葉は今も私の中で鮮明である。しかし、課せられたと認識した役割を全うすることが生き残った者の最大の責務であると考えている。

本稿を98年の夏に行動を共にした両君に委ねたい。この論考が野外活動についての共通認識の確立と回避可能な事故防止の一助となれば幸いである。彼らの魂の安らかならんことを心から願う。

「被告はリーダーだった」という原告側論理への反論

今回の裁判で私が納得できなかったのは、「被告はリーダーとして初心者を引率した」という原告側弁護士らの主張であった。その主な根拠は、1.被告はクライミクングジム「破天荒」の経営者で、他の参加者はその客であった、2.被告は沢登りや登山経験が際だっており、コースについて最も良く知っていた、3.誰をリーダーとするかの話し合いはなかったようだが、これは話し合うまでもなく被告がリーダーであることが当然だったからである、の三点であった。

これらの中で、とりわけ「話し合うまでもなくリーダーである」という主張への違和感は強烈であった。なぜなら、社会人山岳会(東海山岳会)で育った私には、「リーダー」は話し合いによって選出されるもので、山行は各自の役割分担について全員の明確な共通認識の元に行われるものであったからである。よって、「リーダー」を引き受けていないのに、経験のより豊富な者は自動的に「リーダー」となり高い法的責任が発生する、と言う主張には承服できなかった。

私たちは反論した。1.計画は「破天荒」主催のスクールではなく、当日の朝、沢遊びに行くことが全員の合意の元に決定された。2.コースは登攀用具が必携の難易度の高いものではなく引率を必要とする初心者はいなかった。3.「リーダー」の決定には当人の承諾が必要不可欠である。しかし、被告は「リーダー」を引き受けてはいなかった。

一審の倉澤裁判官は原告の請求を認めなかった。控訴審の大内裁判長も一審判決を支持した。このことは、この判決が今後の登山事故裁判の基準となる“判例”となったことを意味する。

リーダーを引き受けさえしなければ法的責任はないのか

判決は、リーダーの定義についての判断を示したが、「リーダーを引き受けていない場合の法的責任」についての見解をハッキリとは示さなかった。よって、この難問を考察しておきたい。ピット・シューベルト著、黒沢孝夫訳『生と死の分岐点』(山と渓谷社)には、初心者と経験者によるクライミング中の事故についてのドイツの裁判所の判断が解説されている。以下に引用する。山において2人あるいはそれ以上の人数(グループの場合も同様)の場合には、経験のより深い者が注意義務を有する。その者は,より経験の浅い者に対し,避け得ない状況のもとで発生する事態は別として,重大事態に陥らないよう保護する義務がある。経験の深い者が,この注意義務を引き受ける意思を有するかどうかは,検察当局の関知するところではない。経験の深い者にはこの義務が,いわば自動的に課せられるのである。
当時の感想は、「注意義務を自動的に課す」という考えには納得できないが、このケースでの判断は間違ってはいない、という複雑なものだった。今回の裁判で、私はこの考え方を否定しようと試みた。つまり、「承諾なしには経験者に高い法的責任(注意義務)を課すことはできない、どんなケースでも。」という結論を導こうとした。しかし、有効な論理を構築できなかった。言い換えれば、原告側論理の成立は可能なのである。以下の仮想事例を考えてほしい。

20年の登山歴を持つ登山者が、登山経験のない成人2名を強引に誘い涸沢に入山した。このベテランは「君たちの体力なら大丈夫。北穂まで行くぞ。」と初心者たちに宣言し落雷の危険性についての説明もなしに北穂を目指した。そして、初心者たちに雷が直撃したとする。
このケースで、被告となったベテランが「この登山は非営利の自主登山で、私はリーダーを引き受けてもいない。よって法的責任はない。」と主張したとする。私は、この主張を裁判所は認めない可能性が高い、と考えている。例えば「本件は経験の著しく高い者と全くの初心者による登山であり、初心者たちは落雷の危険について知らされていなかった。よって、リーダーであったかどうかには無関係に被告には高い「注意義務が課せられており、これに違反したことは明らか」などと判断されるのではないだろうか。

しかし、「説明責任」(インフォームドコンセントとインフォームドチョイス)がなされていれば事情は異なると思う。つまり強制ではなく、「北穂まで行くことも可能だが」とあくまで提案し、落雷などの危険性も十分に説明して判断も求め、初心者たちも危険性を受け入れていた場合である。このケースで、「落雷の危険性は説明した。彼らはそのリスクを認識した上で登山の続行を自ら選択した。私は注意義務を果たしている。」という主張が行われ、この主張が立証されたら、どんな判断を下すべきだろう。私はこの条件下では法的責任はないと考えている。

理解を深めるために実例をあげておく。経験豊かなバックカントリースノーボーダー2人が、滑走はうまいが雪崩の知識のない仲間を1人連れてカナダのスキー場のバウンダリーに立っていた。バウンダリーを超え反対側の斜面を滑ろうとした経験者たちは弱層テストなどを行い、以下のような説明をこの新人に行った。

「今日のこの斜面はかなり雪崩の危険がある。しかし、オレたちは滑る。よく聞いて欲しい。もし雪崩で君が埋まったら、ビーコンがあるとは言え蘇生可能性の高い時間内には君を掘り出せないかもしれない、さらに、オレたちに心肺蘇生の実践経験はない。だから雪崩れたらまず助からないと認識してほしい。去年二人がここで雪崩で死亡した。捜索費用は数百万円だと思う。これが君に伝えられるすべてだ。もちろん、回れ右して、あのレストハウスでホットチョコレートを飲むのも君の自由だ。君自身の意思で決めてくれ。」

説明責任を果たせば法的責任は軽減されるべきだ

原告側が指摘した問題について、私たちは明確なコンセンサスを確立しなければならないと思う。以下に試論を提示したい。

ある山行にその難易度に対応する力のない者(以下、「初心者」という)が参加する場合は、「リーダー」の有無には関係なく、その難易度に対応する力のある者(以下、「経験者」という)は、「初心者」の安全に対して一定の法的責任を負う。また、「リーダー」が選出された時は、その人の法的責任の程度は「リーダー」でない場合より増加する。

これらの法的責任の程度は、山行の難易度とそれに対する両者の実力の関係、営利性の程度、「初心者」に期待される判断能力や「初心者」の主体性の程度などによって変化する。具体的に言うと、成人の仲間同士の自主山行に比べて、成人「初心者」への有料登山教室は高い法的責任が指導者や主催団体に課せられ、未成年者が義務的に参加させられる学校登山にはさらに高い法的責任が自動的に発生する。

しかし、その山行に予見される危険の程度とその発生確率についての「説明責任」が適切に行われ、「初心者」の安全に寄与できる程度も説明して、「初心者」の正しい理解と合意を得た場合は、「経験者」の法的責任の程度はその合意レベルまで軽減されうる。

一方、「初心者」にも注意義務は存在し、これに違反した場合(実力過大報告・病歴隠蔽・体調虚偽報告・指示無視など)は、連れて行ってもらう側も法的責任を追及されなければならない。なぜなら、どんな理想的な「リーダー」が存在しても、「初心者」の積極的協力なしには、“真っ当な登山”は成立しないからである。また、登山は原則として自己責任の行為であるので、特に成人が自由意思で参加する場合は、「初心者」といえどもその内容について自ら検討すべきであり、これが不十分であれば過失相殺(認定された賠償額を両者の責任割合に従って分かちあう)の対象となる。

事故防止のためにも、判決公開の検討を
本稿の目的は、「経験者」の法的責任についての考察であった。しかし、裁判ではこれとは異なった争いも発生した。この事象が私の事例を本誌に提供したもう一つの動機である。裁判におけるいくつもの争点の中で、私たちが反論したリーダーに関する原告側主張の概略は、1.被告は警察などに「私がリーダーです。」と述べていたはずだ、2.被告は参加男性2名に女性を補助するよう命令した、3.事情説明の席で関係者が被告に対しリーダーという呼称を使用した、である。

裁判所はこれらの主張を認定しなかった。しかし、原告側が主張したように、私たちが「口裏をあわせ」ているとしたら、原告弁護士らが「死者に責任を転嫁しようとするもので極めて卑怯」と述べたように、私は保身のために事実を曲げたことになる。これはきわめて不本意なことだ。なぜなら、事実を述べることは (特に御家族に対して)、事故当事者の基本的な義務だからである。よって、この争点を公開し、今春開設予定の私のホームページにおいても、プライバシー権に配慮する手段を用いた上、資料を公表する(日時は登山関連のホームページで告知)。周辺事情についても同様に対応したい。

登山事故の法的責任の一般化という観点からも、裁判資料公開は必要不可欠な行為である。少なくとも判決の主要部分は公表すべきだ。これらのデータの公開と蓄積は必ず事故防止に役立つと思う。よって、今後の裁判において、訴える側の人たちは裁判を受ける権利を堂々と享受し、被告となった人たちは自分の判断に強い思いがある時は、「言い訳をするのか」という批判を怖れず正々と事情を説明し、「法的責任はない」と主張して裁判官を啓蒙することにひるんではならない。ことに危険度の高い登山をする人たちはこの点を心に刻むべきだ。なぜなら「場合によっては生還できないリスクをも許容する」という思想は、積極的に説明しなければ理解してもらえないからである。冒険の遺伝子を絶滅させてはならないと思う。

最後に、このデリケートな事案に対して紙面を提供する努力をしていただいた方々に深謝したい。そしてなにより、仲間の安全のために自らをリスクに置いた両君に対して心からの敬意と哀悼を捧げる。

主な参考文献

文部省「高みへのステップ」(東洋館出版社)
本多勝一「雪山の引率登山は免許制に」(潮1987年8月号)
本多勝一「リーダーは何をしていたか」(朝日文庫)
辻次郎「登山事故の法的責任(上)(下)」(判例タイムズ997,998)
近藤和美「私の高峰登山覚え書」(登山時報1999年1月号)
ピットシューベルト「生と死の分岐点」(山と渓谷社)
小日向徹「フリークライミングの危険を考える」(岩と雪161号)

この原稿は山の情報誌「岳人」(2002.4月号)の特集記事「山の裁判から学ぶ登山者の教訓」に掲載された原稿です。この特集は登山事故の法的責任について考える上で必読と思料します(2002年5月現在)。

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