管理人の論考

アウトドア活動のリスクと自己決定権

以下は神崎川事故裁判における本人陳述書(2000年1月28日付)の抜粋です。


アウトドア活動のリスクと自己決定権

登山をはじめとするアウトドアスポーツには、生死に関するリスクが存在する。この程度は、参加者のうち数十人に一人の割合で「死亡」するヒマラヤ遠征から、「死」と遭遇することなどほとんどありえないハイキングまで様々である。

しかし、どんなに客観的危険の少ない野外活動であっても、自然の中での行為である以上「事故」の確率はゼロにはならない。山岳登攀の対象ではない一般登山道においてさえも、万一転倒すれば最悪の事態が予想される場所は数多くあり、すべての場所に防護柵や鎖場を設置することはできない。低山ハイキングや公園でのバードウォッチング中であっても「死」の確率は厳然として存在している。その場所に赴く限り、人はその確率をゼロにする能力を持ち合わせてはいない。

本多勝一が『山を考える』(朝日文庫200頁)で述べたように、「極端な言い方をすれば、一歩一歩を「安全度の高い確率」にかけている」に過ぎず、「残りの何ほどかのパーセントは、「危険の確率」に属する。」のである。

アウトドア活動における魅力には、そのリスクと不可分であるという特性がある。定向進化したアウトドアの住人の中には、自らの意志でより大きなリスクを求め、その困難の克服に「生」を賭ける者さえ存在する。絶対安全な登山と言う言葉は形容矛盾であり、リスクをゼロにして、その魅力だけを抽出することはほとんど不可能に近い。したがって、アウトドアで遊ぶ者達はこのリスクを引き受ける覚悟がなければならない。アウトドア活動中は、その魅力とリスクを常に天秤に掛け、どうするべきかを他人まかせではなく「自己決定」する必要がある。

そして、決定に伴う結果は「自己の責任」として受容することになる。結果は、喜びではない場合もあるかもしれない。しかしそれを選択したのは「自らの意志」なのだと言うことを忘れてはならない。もし、リスクを引き受けられないのなら、その野外活動をしてはならないと考える。様々な意味で責任をとるのは他人ではなく自分である

リスクの判断については、何度も考えてはみたが、最終的には、やはり「本人がなすべきものである」とするしかないのではないだろうか。初心者が、自分の危険感知能力の低さを、ことさらに、さも当然のように強調するのは問題である。自然の中における危険感知能力は、もともと進化の過程で遺伝子の中に備わっているはずである。成人に達するまでにその能力を発現させて生き残る能力を身につけておくことは、生物としての「義務」のようなものではないのか。

「初心者だから」と言う理由で、自分の安全のすべてを、他者に任せきりにする態度は、やはり、批判されなければならないと思う。なにも暴走する核分裂反応を止めてほしいと言っているわけではない。ほ乳類の一種族として、目の前の、そしてこれから起こりうる危険を察知して、自然の中で「命」を守れと言っているのだ。五感を常に働かせていれば、危険に対する判断はある程度可能なはずだ。

もちろん、この能力の獲得については本人だけの問題ではない。この能力は子供時代に獲得されるべき性質のものである。極端に、危険から子供を遠ざけ、その存在と危険とのつきあい方を学ぶ機会を取り上げてしまう行為こそ問題とされるべきだ。危険な状況を「危ない」とさえ感知できないという結果の原因は、危険を「危ない」と言う理由で極端に囲い込み、「危ない」とはどういうことなのかを「体験」として教えていないことにあるように思う。

どのように生きるかについての自己決定は「人権」の根幹をなすもので、その行為はその人だけの厳粛な作業だと私は信じている。忠告は可能である。命がけの批判もあってよい。懇願もゆるされるだろう。しかし「強制」することだけは許されない。強制は不当な干渉であり人権の侵害である。他人の強制のない本当の「自己決定」についてはたとえ家族であっても、他者はこれを受け入れるしか道は残されてはいないのだと思う。

自主登山 (1)が、他人の強制のない真に自己決定された登山であるかぎり、当事者達に起こったことについては、その結果がどのようなものであったとしても、当事者達の間で分かち合い、解決するべきものである(2) 。「自由は他人を害しないすべてのことをなしうることに存する」という概念は、登山を含むあらゆるアウトドアスポーツにおいても適用されるべきだと主張したい。

一方、この主張の故に、遭難時の救助費用などについては、当事者達が負担すべきものと考える。アウトドアに関する保険への加入も怠ってはならないだろう。自分が選び取ろうとする選択について、他人頼みにせず可能な限り情報を集めて自分なりに評価しなければならない。自分が選び取った行動に伴うリスクについては、事前に家族に十分に説明しておくことが、共に行動する仲間への最も重大な義務 であると思う。また発生した「結果」についてのすべての情報を受け取る権利を持つ人々の存在は忘れてはならないとも考える。原則として家族などからの求めのある限り、あらゆるデータをありのままに開示することは、仲間としての最低限の義務(3)であると知るべきだろう。

これらの義務を果たして、はじめて、アウトドアの住人である私たちも、フランス人権宣言4条の恩寵にあずかることができるのだと思う。


(1)形式的には自主登山でも、リーダーなどの命令に絶対服従しなければならないようなものは真の「自主登山」ではない。それは「強制登山」とでも言うべきものである。

(2)本多勝一は、「雪山の引率登山は免許制に」(潮1987年8月号)で、「電車の線路の間に寝て、電車をやりすごしたり、タルにはいってナイヤガラの滝からころげ落ちたりすることに死の危険があったとしても、それが「引率」され、安全だと信頼してだまされたのでない限り、あくまで個人の責任であり、法的にどうのこうのする問題ではない。個人の自由である。この点では日本はむしろおせっかいしすぎる傾向があり、「個」が確立されていない。」と述べた。

(3)近藤和美は、「私の高峰登山覚え書」(登山時報1999年1月号)で、高峰登山でのリスクについての家族への事前説明に言及し「『家族の承諾が得にくいからとあい「まいな説明ですませたまま出かけることは残った仲間に対する「裏切り行為」だと知るべきである。』と述べている。   

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