以下のリーダー論は、神崎川事故裁判の被告であった私が2000年1月28日付けで岐阜地方裁判所に提出した本人陳述書からの抜粋です。ただし、原文を半分程度に要約してあります。
2002.03.29
B. リーダーと「リーダー制」
…..登山パーティはリーダーとメンバー(フォローワーとも呼ばれる)によって構成されている。
その機能は、各人が各々の役割を果たして、はじめて成立するのである。メンバーが、リーダーの指示を無視し自分勝手な行動をしていては、たとえ要求される資質をすべて備えた超人のようなリーダーがいても、そのパーティは機能不全に陥るだろう。
したがって、真にリーダーについて議論するのであれば、リーダーについて論ずるだけでは不十分であり、リーダーとメンバからなる一つの「まとまり」としての「リーダー制」について語る必要がある。…..
1.「登山」や「岩登り」あるいは「沢登り」の計画が提示される。
2.参加希望者の中でリーダーが選出される。
装備・気象・食料・会計・医療・記録及びサブリーダーなどが選出される。
コースの研究が行われる。
3.参加希望者の間で準備会が開かれ、様々な角度から安全対策が検討される。
4.参加希望者にその計画に参加するのに相応な実力があるかが吟味される。
不足な時はトレーニング山行がおこなわれる。
5.計画書を所属山岳会の山行管理部などに提出し、許可を得る。
これらの手順のなかで、参加メンバーの間で計画に含まれる危険性とその対策が明確になり、総合的に登山パーティ全体の安全度が向上することになる。中でも参加者全員が各自の役割分担に合意しあうことは、最も基礎的なキーポイントである。
もし、事前の相互確認もなく、パーティの構成者が各自の役割を把握していないようでは、緊急事態において統率のとれた登山パーティとして一貫した行動をとれるはずはない。….
したがって、登山パーティにおける役割分担の決定は、参加者メンバーの間での「徳義上の約束」であり、契約の一種とも考えることができると思われる。ゆえに、その決定において「申し込み」と「承諾」の合致が必要不可欠であろう。
したがって、その委託にあたっては、委託する側の自由な意志によるものでなければならず、その委託の決定に際して「他人の強制」があってはならない。
同様に「リーダー」を受託する側においても、その役割の受託において、承諾・拒否・取り消しは自由でなければならない。
どう生きるか、あるいはどう死ぬかは、基本的人権の最たるものである。登山に関するすべての選択も、当人達の真の意味での「自己決定」に委ねられなければならないと考える。
…..私は、『「リーダー」はあくまでもまとめ役であり、決定はメンバーの合議による。生死の判断を他人に決められるのはゴメンこうむりたい』と思っている。よって、納得した上でなければ、「リーダー」命令とはいえ従わないし、従ってはならないと考えている。
なぜ「リーダー制」でなければならないのだろう。
各自が合議によって決定する。あるい、勝手に各自の責任で判断しても良いのではないか。
「リーダー制」を取っているからといって、安全度が増加するとは限らない。
「リーダー制」を導入して登山パーティ全体の安全度が真に高まるのは、能力の高い優れた「リーダー」がいて、かつ登山パーティの間でリーダーシップとメンバーシップが十分に発揮された場合のみである。
次のようなケースを考えてみてほしい。
ある一人の登山者がいたとしよう。この登山者が分不相応な計画を立てたとする。その登山者は、単に「リーダー」として他人を指揮したいというだけの理由で、自分の登山歴を偽ってその計画の参加者を募り、参加チ希望者に計画の危険度を偽って伝え、虚偽の経歴を誇示して「リーダー」の座に座り、能力のないことを隠して、メンバーに不適切な絶対命令を出したとする。しかし、参加したメンバーは、その「リーダー」の真の実力を見抜くことができずに、あるいは「リーダー」の判断に疑問を感じつつも「リーダー」の命令は絶対であるという理由だけで、全員がその指示に従ったとしよう。
この登山パーティにおける安全度は、「リーダー制」を取ったがために、各自が勝手に判断しバラバラに行動するよりも、減少しているのではないだろうか。
自分の安全の確保は、常に自分で判断し続けるという習慣が、野外活動には必要不可欠である。
もちろん、「リーダー」に恵まれれば、「リーダー制」はパーティの安全度を高めてくれるだろう。しかし、誰もが常に優れた「リーダー」とは限らないことも知っていなければならない。
「リーダー」に判断を委ねるという場合であっても、『自分が判断するよりも「リーダー」に判断を委ねた方が結果的に安全度が高い』と言う判断を、自分で下した上での委託でなければならない。そして委託した後も、「リーダー」と自分の判断を、常に検証し続ける必要がある。
なぜなら、不測の事態発生などで、「リーダー」の判断力が自分より低下する可能性もあるからである。第一、緊急時にも「リーダー」が冷静であるかどうかなどは、その時になってみなければわからないことなのだ。
1.そのコースに予想される基本的な難度
2.想定外の要因(気象条件の激変など)によって加味される難度
3.参加パーティの実力
3.の参加パーティの状態は、各個人についての経験・体力・技術・体調・危機管理能力などとメンバー間のチームワークの関数となる。もし「リーダー制」を採用するのであれば選出された人間の「リーダー」としての資質も大きな要因となるだろう。
1.の条件はすべての基礎となるものである。もしこの難度が低ければ「リーダー制」についての認識があっても、「リーダー制」の導入の検討さえ、なされることはないと予想できる。
低山のハイキング・バードウォツチング・河原でのバーベキューや「川遊び」などはこれにあたる。
1.の難度がもう少し上昇し、例えば夏山登山程度になると、2.の要因が不確定なこともあって、「リーダー制」を有効と見る登山団体においては、3.の状況いかんによって、「リーダー」が選出されるだろう。
逆に、3.の平均水準が一般の登山団体より高い社会人山岳会では、一般の登山団体が「リーダー」を選出するケースでも、総合的に見て危険度が低いと判断し、計画書の提出を簡略化したり「リーダー」を選出しない場合もある。
また、危険度の状況は刻一刻と変化して行くので、「リーダー制」の概念があり、それを機能させうるノウハウを持ち、かつ、その機能を重視する団体であれば、1.が低いため「リーダー制」を採用しなかった計画でも、突然の大雨などで2.が増大すれば、「リーダー制」を導入するだろう。
また、1.と2.が低いために、「リーダー」なしで順調に計画が進行していてもけが人などが出て3.が悪化すれば、誰かが「リーダー」を引き受け、そのパーティは「リーダー制」に移行すると思われる。
しかし、すでに何度か述べてきたように、「リーダー制」は、いついかなる時も採用できるシステムではない。
行動の決定はその都度話し合って決め、合議する余裕がない時は各自の判断によるという方法も、一つの見識である。…..どのような場合にどのような選択をするのかは、その集団の自由意志による「自己決定権」に委ねられるべきものと考える。