以下は、上坂淳一さん ( グループ山想同人所属 ) による「登山事故の法的責任について」の洞察である。本論文は、上坂さんと私とのメールのやりとりの中で、御寄稿していただけることになった。貴重なお時間を、登山事故の法的責任問題についての論考の書き下ろしのためにさいていただけたことを心より深謝いたします。
なお、ウェブ上で文字化けなどの誤りが発生したとしたら、それらはすべて私のミスである。
2003.05.13
登山事故の法的責任について
上坂淳一(グループ山想同人)
1はじめに
涸沢岳西尾根事故の高裁(2審)判決が出されたのを機に宗宮さんがインターネットを通じて意見を募られましたので、私も登山者の一人として現時点での意見を述べさせていただきたいと思います。もとより、私の目的とするところは登山が少しでも安全に実行されることであり、また規範などというものは(登山行為にそういうものがあるとして)特定の個人によって決定されるはずもなく、多くの方のご意見が開陳されてこそ価値があると思いますので、私の不見識なところも含めてそうした目的の一助になればと思います。もちろん他の方の体験、あるいはこれから実行される登山について非難する意図は毛頭ありません。
また刑事訴訟は判例が少ないことと、営利型の引率登山は契約内容にもよりますが代価が介在するために非営利の登山とは異質な委任関係が生じるため、ここでは直接に扱うことを控えさせていただきます。
重ねて、私は法律家ではなく、あくまで一登山者の側から見た私見であることをお含み置きいただきますようお願いしますとともに、少なくとも死亡事故に関しては事後的解決がどのようにはかられようとも、決して原状回復は望むべくもないという現実は登山者の一人として忘れないでいたいと思います。
2 司法的解決への疑問
第2次登山ブームといわれ、参入者の増加や登山形態が多様化していることは喜ばしいことでしょう。しかしその反面、従来の登山社会の経験則が相対的に低下するのに伴い、旧来の水準から見ればあまりにも自然環境を無視した無防備な行動や判断が増加しているようにも思われます。昨今、登山事故についての民事訴訟が増加傾向にあるのにもそうした必然性があると思います。
もし不合理な行為による事故があれば「すべては山の中で起こったこと」では済まされず、公開の法廷で審理、検証されること
は市民の権利として、あるいは将来の事故に対する予防および抑止効果も含めて排除できない面もあると思いますが、ただ私にはもう一方でそうした司法的解決が決して万能ではないという思いもまた深まってきています。
このところの学説や判例には誤った登山者間の対人関係をもって責任の所在を事後的に処断するかのような傾向が見受けられ、いささか現実の登山との乖離も認められると思います。これらの論述は各論を見る限りは一理あるように見受けられるところもあるのですが、しかしそれではいったい山登りとはどうあるべきか?と考えたとき、少なからず法律と道徳の分別を欠いた議論があるように思われます。これは登山だけに限ったことではなく、スポーツ(注)全般に対し、あるいは社会全般の中でそういう傾向があるからかもしれません。
(注)登山界ではスポーツクライミングという言葉がコンペなど競技的な性格を持つものや客観的なグレードの向上を目指すカテゴリーを表す言葉として用いられることがありますが、ここでは専ら肉体の運動を伴った娯楽や趣味と言う範囲とご理解ください。
3 社会環境と意識の変化
従前、危険引受責任が支配的であった登山活動においても近年は登山者間の民事責任を追及する訴訟が増加してきています。それを誘導する考え方に「この世の中はすべてに誰か管理者が存在し、事故があれば責任者がいるはずだ」という誤解があるのではないかとさえ思えることもあります。
自然環境を自ら加工して生活環境を整備すること、および高度な社会性を有することは人類の特質ですが、登山とはそもそも人工的な環境からの離脱を定義の一つとする行為ですから、そうした日常生活空間の規範を当てはめるのには無理があると思います。
日常生活空間では、たとえば電車の転覆事故があり乗客が負傷したとしても、乗客に対して、なぜその電車に乗ったのか?とか事故に備えてどのような対策をしたか?という追求がされることはないでしょう。なぜなら、電車を運行することは全面的に鉄道会社の管理下にあり、乗客の安全を確保する責任があるからです。もう少し細かく見れば、乗客にはレールの敷設に問題がないか?車両の構造や整備に欠陥や不備はないか?信号系統に異常がないか?運転手の技量は十分信頼できるか?などということを調査し確認した上で電車に乗り込むことは現実問題として不可能であり、このように運賃という代価を介して全面的に鉄道会社に安全を委任し依存するのは文明を享受するための人類の社会性に基づいたシステムであり、人工施設の場合には、それは安全確率を高める合理的なシステムであるに違いありませんが、それは登山でも同様なのでしょうか。
年々アプローチの交通機関も登山道も山小屋等の宿泊施設も整備され、ガイドブックやビデオによる紹介、インターネットによる情報があふれ、さらには携帯電話の通話区域の拡大といった「大自然の中に身をさらす」空間が縮小してきているのも事実です。そうしたことが直感的な「山」と「街」の空間概念の相違を薄めているとしても、増加傾向にある登山事故は、そうした人工的な管理区域から一歩離れた場合には、依然として人間がいかに無防備で無力な存在であるかを証明しているのではないでしょうか。
4 登山という行為の空間的定義
乗鞍岳畳平バス停は標高でおよそ2700m、木曽駒ヶ岳千畳敷ロープウエイは厳冬期でもほぼ同じ標高まで達します。信州ではリフトの最高点が2000mを超えるスキー場もありますが、これらの範囲で事故が起こってもそれを登山事故として扱われることはおそらくないでしょう。ここでは、標高や季節にかかわりなく、自然環境(人工施設でなく管理者もいない区域)の中で行うということを登山の空間的定義として考えます。
5 危険引受責任と自己決定権(自己責任)
登山がスポーツ障害(人身事故)の起こる危険性が格段に高いことは保険料率を見ても明らかです。些細な過ちが重大な人身事故につながるのは登山というスポーツが繰り広げられる自然環境と密接に関連するものです。しかし、「山の危険」というのは、その蓋然性は予測し得ること、また登山者が来ようと来まいと自然環境は何ら影響を受けない(登山者が来たから嵐になったわけではない)ことから、本来的な危険性は登山者自身に内在するという反致も成立しますので、一概に環境の側に主因がある(自然災害)とは特定できません。
私が考える危険引受責任の解釈は、管理されない自然環境で行う登山では、そういうことが前提として承知されているのだから、結果から原因に遡っていくと結局は「危険を承知でその行為(意思の実行)に及んだ自身」にゆきつかざるを得ないという考え方だと思います。(注)
ただし、その前提として「些細なミスが重大な結果につながる(=危険である)という認識」と「自らの意思により実行する」ということが要件となります。少なくとも前者は人為的に規定されているのではなく、初心者だから、あるいは経験者の援助があるからと免除されたり放棄したりすることは客観的に不可能です。ただし危険認識を誤らせる要素や参加を強要したといった問題があれば、後に法的な紛争になることも考えられます。
また、金銭を代価として引率される場合には人為的な管理環境下にあるという錯誤に導いたおそれが高く、それが自然環境の下で行われていても危険引受責任やスポーツとしての免責を求めることには疑問の余地が残ります。
(注)私が重視したいのは、スポーツ(趣味)とは「しなくてもいいことをわざわざやっている」ということです。しばしば人を熱中させるスポーツ(趣味)は、世の中に何の益もなく、むしろ周囲に迷惑がられ、ときとして自己を傷つけることまであるのですが、にもかかわらずそれを悪徳とはされていないという不思議なところがあり、驚いたことにそれを奨励する意見さえもあるのです。つまり、スポーツ自体はこれまで様々な説明が試みられてはいるが、快楽が目的であるとか、健康に寄与するとか、人間の本能に基づくものであるとかといった単純な論理に帰結し得ない、あえて言えば、その不条理や矛盾(あるいはその解決を図ること)を本質的に内包する存在だということは広く認められていると思います。
6 アマチュア登山者の責任について
前項ではいささか法的責任について否定的な考えを述べることになりましたが、では私が登山組織(留守本部を含む登山パーティー)において、互いに責任を負う(負わせる)ことにまったく意味がないと考えているかというと、そうではありません。ただ、その責任の意味は(事後的)賠償責任ではなく、(予防的)実行責任と考えています。
同じ肉体の運動でも健康体操とは違って、スポーツでは一瞬一瞬の判断はすべて不可逆的に下され、一寸先のことはわからないからこそ、それを予測し、また自らに有利な条件を切り開くためにあらゆる努力を払うのがスポーツの本質的な魅力(注)です。登山が特別に危険性を伴いつつもスポーツであることとの整合性を求めるならば、その実効性のある解決は事前に防止する努力によってのみ成しうるものと考えます。そのため、パーティーが活動する際には、リーダーおよびメンバーが担うべき実行行為というのは何年もの間、繰り返し修練を重ねて積み上げていくもので、それは無数といってよいぐらい多く存在し、またその目的、手法、準備、能力、意思、行為と結果の間には複雑な関連が生じます。それを結果のみにおいて事後的に法的責任を追求し、しかも第三者による正当な評価を行うことは容易に可能とは考えられません。他のスポーツにはルールという事前に定められた約束がある場合もありますが、それでも戦術や判断が特定の様式に従わなかったということで法的責任を追及されることはありません。それはサッカーで90分の間にある選手のボールタッチのすべてに、あるいは野球での27個のアウトやおよそ100球に及ぶ投球とそれに対する攻撃と守備の一つ一つに法的審査を加えるようなバカなことに過ぎません。私の定義する広義の責任という言葉の概念について、少し述べたいと思います。
(注)少し補足しておきますと、私は勝利を目的とする競技スポーツであっても、勝利至上主義は主流をなしていない、むしろ勝利至上主義を排して過程を重視するのはアマチュアスポーツ共通の性質であって、登山固有のものではないと考えます。これと対照的な存在がビジネスで、努力の如何にかかわらず結果を出さなければなりません。アマチュアスポーツを楽しむ人には少なからず、日常生活では学生であれ、社会人であれ、自発的ではない目標を定められ結果のみを求められていることが多いと思います。この対称性が、多くの人々を余暇にアマチュアスポーツに向かわせる魅力でもあるのです。
(1) 責任とは
現在語られている法的責任のほとんどは、端的に言えば当事者間の合意事項および技量や経験の多寡を計って登山者間の対人的関係を判定する作業に費やされているように見受けられます。これはかなりうがった見方でしょうが、私には当人以外のものに法的責任を擦り付けるためにありもしない関係をでっちあげているようにも見えなくはありません。私は登山パーティー内での対人関係とその責任とは実定法がどのように規定しようとも「生きて(できれば無事に)帰ってくること」が登山における絶対的規範であり、究極の目的と考えます。したがって、責任という言葉の広義の定義として、私は経験や技量にかかわらず「すべての登山者がそのためになすべきこと」と考えます。
(2) 自己責任について
たとえばテントを持って縦走する場合、一日10時間前後に及ぶ行動の中で随所に危険箇所が存在し、転落のような瞬間的に発生するような事故に対して、それを数日間にわたって誰かが始終他人の安全を保障するということは現実に不可能です。自己責任という考え方の根拠は「事故を予防できる立場にあるもの」および「その結果が及ぶ者」は誰かということです。
「自己」とは第一に自分の体調や技術、装備の取り扱いに間違いはないか?そういうことを最もよく知る者だということです。第二には必要なトレーニングをしたり、無理と判断する場合には参加しないといった選択を行うといった事故に対する不確定要素を最も排除しうる立場にあります。第三には他人に安全をゆだねた場合に、いつも注意をそらさないでいてくれるとは限らない、ということ、第四に個人的なけがや病気は他人が代わることはできない、ということです。
このような「自己」という立場は技量、経験の多寡や組織内の地位によって、委任できる余地のない性質のものです。初心者は自己責任に関する十分な技術的裏付けを得られないこともあるのですが、初心者が経験者の援助という不確実な根拠に依存することは自己責任という概念の上では安全を放棄するのと同じことです。活動範囲を自らの判断で限定したり、経験者の援助を求めて自らも経験を得ようとすることは許容されるとしても、もし事故に遭いたくないのならば、それは他人から指図を受けて行うことではなく、他人に対して責任を求めても意味がありません。
人気のあるよく整備された山域では観光目的や親睦目的のグループ、あるいは登山パーティーの中にそういう目的のメンバーが混在することはしばしばあること(注)ですが、責任の所在を決定するのは自然という環境であって、それに沿わない主観的人為的な関係が効果を持ちうる範囲は極めて限定的なものです。通過に難渋するような危険箇所であれば、なおさら他人を保護することよりも誰もが自らの安全を確保することに注意と労力を割かなければなりません。そうした角度から見れば、たとえば引率登山という当事者間での合意があったから(なかったから)、技量が高い(低い)から、自動的に引率者の法的責任が追及される(されない)というようなことを類型化して判断するのはきわめて矛盾に満ちたことではないかと思います。
(注)目的の不統一は様々な概念上の混乱をもたらすだけでなく極めて危険なことですが、どちらも余暇の利用形態の一つとして共通する部分も多いためにしばしば混同されていると思われます。
(3) 管理責任について
論理的にはすべてのメンバーが自己責任によって無事に下山すれば登山事故は起こらないことになりますが、単独登山は別として、個人では安全確保が不十分であると考えられている場合に登山パーティーを組むことになります。そこで管理者(リーダー)の責任とは、私は第一には「与えられた時間(注)と山域の範囲で活動すること」、次に「可能な限り登山目的(地理的目的、技術的目的のほか「訓練」等の性格も含む)の達成を得ること」であると考えます。またこの順序は変えられません。しばしば「引き返す勇気を持とう」という標語を見かけますが、「時間内に下山すること」は目的の達成よりも優先する責任があるという当然の認識があれば、勇気などはまったく不要です。また、ルート変更については緊急事態に際してエスケープすることはやむを得ず、また留守本部が当然に想定できることですから問題はありませんが、時間が余ったからといって予定外のルート延長をすることは、事故なく山行を終えたとしても、そういう実績は将来もし下山遅延があったときに留守本部の判断と捜索範囲の想定を混乱させる可能性があることを認識しておく必要があります。
そういう責任と一体のものとして、リーダーにはパーティー全体の危機を回避し、目的を果たすために気象、装備、食糧などの任務を適性に応じて参加者に分担を課し、個々の局面での作戦を決定する権限がゆだねられるのだと思います。たとえば、天候の悪化が予想される場合はスケジュールを短縮もしくは中止して撤退したり、メンバーの体調を考慮して装備の分担を変更したり、ルートの確認などといった指示を行います。もちろんパーティーの構成によってはリーダーが自ら分担したりすることもあるでしょうし、またリーダーが責任に沿わない指示をした場合に決定に異議を述べることもメンバーは留保(責任の潜在的分担)しておくべきと考えます。つまり、リーダーとはパーティーの機能を最大限に発揮できるようパーティーを導く立場ではあるけれど、鉄道会社のようにルートや山域をコントロールして登山者を保護しているわけではなく、もちろん絶対的な権威者ではありえないのです。しばしば問題になるザイルの使用も少なくとも一般道においては、ザイルを使用することで転落を防止することもできますが、それは一つの可能性であって、すべての危険箇所でザイル確保をしていればスケジュールが遅れてパーティー全体を危険にさらすおそれもあります。私は自然環境下においては、リーダーの責任とはパーティー全体の危険を回避するためのものであって、それが個々の参加者の安全に資することはあっても、リーダーという個人が特定のメンバーという個人を保護するような責任はありえないと考えます。
少々複雑な話になりますが、転落や病気などはリーダーや他のメンバーが防ぎ得ることではなく、各自の責任において防止するべきことです。しかし個人の過失もときにはパーティー全体を危機に陥れる可能性もありますから、メンバーの「自己責任」とはいえパーティー全体の安全にも影響する(パーティーに対して責任を負う)要素も含んでいますし、また事前にリーダーがパーティーの安全を阻害する可能性のあるメンバーに対し個別にトレーニングを指示したり、その達成度を確認したりする(管理責任と自己責任の重複)こともありえます。
(注)あらかじめ予備日または最終下山期限の設定があればそれを含む。また「期限」はリーダーと留守本部との権限および責任の分界点であるから曖昧であってはならない。
(4) 分かちがたいもの
以上のように、自己責任と管理責任を分別することは難しいのですが、もともと登山活動においては個人の責任を特定しづらいことが大半ではないでしょうか?
グレードやジャンルにかかわらず自然というものは人間に対する脅威を包含しているもので、登山パーティーとは無防備な人間が社会性を持つことで、いくらかでもそれに対抗しうることを目指すものです。そこで起こった不幸な出来事に対して誰が責任を負うのかを特定するのは、私のわずかな経験では、いまだ明確な基準を見出せません。つまり、パーティーを組むということは個人の能力を集合するだけでなく一体化させることによって、より高い能力を持つ擬制的人格を形成することです。もし登山パーティーが単なる個人の集合体であるとするならば、人員の増加はトラブルも比例して増えることはあっても、安全に寄与するところはありません。したがってパーティーを組むということは他のスポーツにおける場合と同様に意思決定が「共同責任による共同行為」という前提においてなされるということです。たとえば野球で、一塁手がボールを追っていけば他のポジションの選手があいた一塁ベースをカバーするのは一塁手のためにしているわけではありません。まして「誰かがエラーしたから試合に負けた」とか「監督の作戦ミスが敗因」などと考える人はもともとそのチームに加わることはもちろん、スポーツをする資格さえ疑われます。
些細な例ですが、利用者を特定できない共同装備(テント、コンロ、食糧)は誰が背負っていくのか?あるいは強風に煽られるテントの中で一人がコッヘルを押さえ、もう一人がラテルネで照らし、食当が鍋をかきまわすという作業は誰の指示によって誰が誰のためにするのか?そこでは初心者だから保護されて当然だとか、経験が豊富だから責任があるとかではなく、登山パーティーとは本来そういう数々の細かな負担と作業を何回も繰り返し、修練を重ねて意思と責任を共有する関係が成立するものだと考えます。そうした場合、パーティーという擬制的人格自体にも自己責任が発生します。もし道迷いがあったから、そのルートを指示した個人、天候判断に誤りがあったから気象担当もしくは管理者としてのリーダー個人の法的責任を追及することは各論としては筋が通っているように見えますが、もしそうであれば安全のために組織されたはずの登山パーティーの機能を破壊することになります。
(5) 責任と権限の一致
先にも述べましたが、私は事故を防止するための責任の相関関係は「事故の結果が及ぶ者」「それを防止し得る者」との関わりがどれだけ直接的であるかという基準ではかられなければならないと考えます。登山とは準備や注意を怠ったものが個人であればそのその個人が自らの招いた結果(困難)に直面し、それがパーティーであれば当該パーティーがその結果(困難)に直面しなければならないのです。当然に自らの身に危険が及ばない者や行動をともにしない者には原則的には責任も権限も与えてはならず(当該パーティーが外部から指図を受けてはならない)、例外的にサポートパーティーから無線機の使用を要請される、救援のために待機する留守本部から携帯電話や予備の食糧燃料の携行を指示される、といった場合にはパーティー外からの関与であっても責任と権限の一致を損なわないケースもあると思います。
経験者がアドバイスを求められたりすることは当該パーティー(または個人)の責任において主体的に情報の評価と選択がなされる限りは応じても許されると思います。(注)
また、山岳会の組織管理者等は危険の蓋然性が高いと考える場合、クラブの事業として認めない、もしくはクラブ内での権利停止等の措置は可能ですが、実力で阻止することは不可能でしょう。
(注)基本的に他人の活動を拘束することは控えなければいけませんが、それではすべての登山者は孤立してしまうしかないでしょう。つまるところ多くの登山者には他者との関係や距離に関する悩みはつきものですが、一言でいえば他者の自己決定権の尊重および様々な情報や指摘を評価し受け入れる主体性の確保が互いにあってこそ、情報や経験の交流による精度の高い安全確率に導かれると考えられます。
(6) 技量のレベル
ここまで便宜上「初心者」という言葉を用いてきましたが、厳密にはこれについても明確な基準を見出すことは困難です。野生動物の場合、種は長い世代を通じて遺伝的に(生まれながらにして)その環境に適応し、個体としても生後ずっとその環境に生活してきているのに対して、人間は先に鉄道の例をあげたように、人工的に加工した環境において高度な社会性を発揮するところにその特質があります。個人の身体能力ではどんなエキスパートといえども裸で雪の中で生活したり、空を飛んだりできるわけではありません。したがって、100日や200日の山行経験をもって「初心者ではない」と言えるのか?という疑問を禁じ得ません。それは本質的に登山者同士の身勝手な架空のイメージでしかありえないのではないでしょうか?むしろ第三者を類型的に評価することは様々な混乱をもたらし、また類型を根拠に安全性を測るのは危険ですらあると思います。本来は同じ目的を持って山行を共にする当事者同士で、お互いに得手不得手などを理解し合い、そこから生まれる信頼などを集積することが必要であり、類型的なランク付けはそれを妨げるおそれがあります。
また、ハイキングだから、高い山ではないから、登攀ルートではないからといった抽象的な分類も危険を排除する手段としては場合によっては効果があると思いますが、それに伴って危険認識も放棄してしまってはその効果はまったく減殺されてしまいます。
(7) ペナルティ
最も直接的に適用されるペナルティは事故という事実とその内容です。それは連れて行ってあげるとか、経験者だから大丈夫だといった「人為的な決定や評価に左右される範囲」は限定的にならざるを得ません。裁くのは自然そのものであり、その摂理に沿わないものはいくら「当事者間での合意」があっても、漫然と繰り返せばいずれは事故という結果を覚悟しなければなりません。
人為的に適用されるペナルティでは、ルールのない登山には競技スポーツのような反則によるペナルティというのはありませんが、軽率なプレーや整合性を欠く戦術に対しては起用を控えられたり、信頼を損なったりという自治的な制裁が加えられることは競技スポーツと変わりありません。
安全が自律的に担保されるためには、上記のような分担され、あるいは共有される責任に対する登山者による自治的処理というシステムが必要です。外部機関の事後的関与は安全確保に教条主義的要素を導入する(注)おそれがあり、スポーツという常に予測のつかない状況に立ち向かう行為にはできるだけ消極的であってもらいたいものです。
(注)予測しうる安全とはあくまで蓋然性に過ぎず、現実に起こった事故は当事者にとっては「それがすべて」です。過失と事故の相関関係が、物理法則のようにもし過失があれば必ず事故が起こる、あるいは何らかの様式に従っていれば必ず事故は起こらないという相関関係があれば、登山技術は極めて教条主義的に確定されることになるでしょう。しかし現実には結果オーライということもしばしばあり、登山経験とは細かなミスを繰り返しながら決定的な破綻を回避する中で、複雑な条件への対応力が蓄積されることといっても過言ではありません。また、あえて不利な条件を目的として選択する場合もあれば、複数の正解が存在することもあります。仮に唯一の正解というものが予め規定され、誰もがそれを目的にしなければならないとすれば、発展性を阻害するだけでなく、登山とはおよそ自虐的とも言うべき苦行でしかありえません。
7 登山パーティの成立及びリーダーの選出とその担保
今日では、登山パーティーと一口に言ってもその態様はますます多様化しています。当然、リーダーの権限とゆだねられる責任についても、定型的なものはありません。リーダー集権型の編成のほうが能力を高める場合もあれば、いつでもリーダーやメンバーが代替可能な編成のほうが有利な場合もあります。アマチュア登山パーティーでは、予めリーダー権限の定められたパーティーに参加者が集まることはまれで、リーダーへの権限の集中度やメンバーの任務分担などは、恒常的に活動しているクラブやメンバーの出入りの少ないパーティーでは、山域や山行目的に応じて(社会契約論に近い概念で)選択され、委任されていると思われます。登山パーティーの人間関係は地位や経歴(注)ではなく、直接に参加して体験した登山活動においてのみ形成されていくものであることには疑う余地はないでしょう。長年の交際を経れば、家族など周囲にも関係が周知されることになり、事後的な責任追及なども少なくなるのではないでしょうか。
(注)条件は毎回変化し、また技術と用具も日々発展と陳腐化を繰り返していますので、過去の成功体験はあまり参考にはなりませんが、失敗例とその原因を把握することは有効と思われます。
気をつけなければいけないのは、参加意思や目的、互いの技量、パーティーの運営について事前に確認する機会のない成立過程と、それを補うトレーニングの設定もない場合でしょう。事前に確認されていないことは事後において互いの解釈の相違が表面化する可能性が高く、また事前に確認していたつもりでも、それが形式的なものであればあまり違いはありません。複数の人員で構成される登山パーティーにおいては、どのような編成形態を選択したか、どういったリーダーに権限を委任したかよりも、どのような努力の積み重ねがあって、その実態を確認してきたかによって、その機能が決定されます。はたして、それを怠った場合の結果について誰かの責任を追及できるのでしょうか?
以下にいくつかのパーティーの形態と、その具体的な注意点を検討してみたいと思います。
(1) 引率登山
引率登山は自己責任という認識を希薄にする登山形態ですから、登山パーティーの中でも相当に危険性の高い編成ですが、自己責任の裏付けに乏しい初心者が登山活動を志すにはやむを得ず必要になる形態と思われます。(営利型引率登山はここでは除きます。)
注意しなければならないのは「初心者は管理されるべきである」というふざけた評価です。もちろん、引率者には特別に慎重な山域の選択と安全確認が求められますが、それは初心者自身の努力の上に補うものであって、初心者の自己責任が消滅するわけではありません。
仮に引率登山を主体的選択として好む集団がいたとしても、選択は自由ですが指向の代償として脆弱な編成を選択しているという認識はすべての参加者に要求されると思います。また依然として危険性は自らの身を守るすべに乏しい参加者において最も顕著に影響します。個人でも取り組めるトレーニングを少しでも多くやっておけば、その分は危険性を排除できると思います。
(2) グループ登山(リーダーのいないパーティー)
リーダーのいないパーティーは相当に組織の機能について熟知している(各自が適切に任務を認識している)集団という場合もありますが、現実には組織的拘束を嫌い、引き換えに組織という機能の利用も最小限にとどめている形態が多いと考えられます。一例をあげれば、人数を揃えることによって幕営装備の負担は軽減できますが、近年はテントを持っているメンバーと食糧を持っているメンバー、あるいは燃料を持っているメンバーがはぐれたり、極端な例では置き去りとも見えるケースも報告されています。一概に危険とは言えませんが、修練の度合いによっては未組織単独のほうが整合性があって安全と考えられることもあります。
もうひとつ注意しておかなければならないのは、山登りに絶対的に十分な技量も経験もありえないということです。まれですが、驚くべき実績を持つクライマーがなんでもないところで事故を起こしていることもあります。どのような形態の登山であっても、少なくとも世の中の多数の人がそうしているように、山に登らないことに比べて安全な登山(注)などということはありえません。登山活動を行うという意思を実行する範囲内で相対的に安全確率を高める手法やパーティー構成を選択することはありえても、人為的ミスも含めて危険を絶対的に避け得ないということは、前提に織り込まれるべきで、アマチュア登山における担保とは、ただ相手に対して一方的に求めるものではなく、そうしたことも受け入れられる関係を認め合ったときに登山パーティーが成立してきた(リーダーの選出も含む)はずです。
(注)手元の資料(日本山岳レスキュー協議会:第一回山岳遭難事故調査報告書)では(軽微な事故が大半ですが)事故の発生件数は、無雪期の山歩きで、天候も体調も悪くなく無理をしたわけでもないという状況で多く発生しています。つまり、入山者の多いことのほうが他の要因に比べて統計的な件数との相関性は強いという分析ができます。
8 道義的責任について
司法機関による問題の解決は言うまでもなく国家権力による強制力の発動であり、それは社会に必要な手段ですが、私はそれがすべてだとは思いません。私は現実に起こる複雑な事態や将来における不測の事態に際して社会は様々な規模や単位によって多様かつ重層的に構成されるべきものと考えるからです。当然そこには法律という統一的規範で処理できない問題が無数にあり、それぞれの社会において自律的自治的に問題解決がはかられることが必要になります。
しかし、残念ながら現実には様々な社会事象に関して、司法的解決にゆだねようとする傾向は年々強まっています。登山社会においても登山組織(パーティー、クラブ、連盟など)は、構成員の活動に寄与するような工夫と経験を積み重ねて運営され、実際の活動がその目的と整合性を持っているかどうかで盛衰を繰り返していますが、近年は未組織登山者が圧倒的多数を占めている事実を見ても、もはやその機能と存在意義は閉塞的な状況に至っていると思います。それが外的な要因のみによるものであるのかを改めて問い直す必要があると思いますが、訴訟事件の増加についてもそうしたことの契機になれば望ましい面もあると思います。
とはいえ道義的責任の概念として、しばしば法的責任より拘束力が弱いもの、あるいは責任の程度が軽微なものととらえられている場合が見受けられますが、そういう側面もあるかもしれませんが、道義的責任には法的責任とはまったく不連続の積極的理由があることを指摘しておきたいと思います。
例えば、体調を崩したメンバーの荷物を代わって背負い、あるいは負傷した登山者の救助を行うといった行為にはおそらく法的責任はないと思いますが、だからといって山でそういう事態に直面したときに見捨てて行ける人などおそらくいないでしょう。しかし、仮にこれが法によって義務付けられたとしたらどうでしょう?外見的な行為は同じであっても自発的行為のほうがはるかに強い動機と実行力を伴うのではないでしょうか?そうした個人の自発性や組織の自律性が低下する傾向にあるとしても、強制力(法律)の適用範囲を道徳的領域に拡大することには慎重であらねばならないと考えます。
9 法的責任を追究されてもやむをえない場合
これまで縷々述べてきたように、私は基本的に登山事故に法が関与することはできるだけ限定的であってほしいと願っております。したがって危険認識について錯誤に至らしめるような行為、危険を引き受ける立場にない者が個人またはパーティーの意思決定を阻害する行為、登山以外の社会的な人間関係や影響力などを持ち込む、といった放置すれば安全登山の自律性を損なう問題でなければ司法の介入は消極的であってもらいたいと思います。
自らの意思であえて不利な形態を選択したり、実績のない様式での実践を目的とする活動は基本的に自由であるべきと考えますが、登山者間で法律上の責任を求めることはかなわないでしょう。
未成年者の場合は、登山技術への評価能力が一概に低いとは考えられませんが(注)、詐術的行為に対する防御経験は一般的に乏しく、監護権者による保護は必要と思われます。
また、賠償責任追及が民事手続き上の便法である場合はともかく、純粋に経済的保障を求めるのであれば保険制度の充実と普及も一考の価値があると思います。しかしリーダーの賠償責任保険というのもあるそうですから、経済的保障でなく、あくまで事故の未然防止を求めるならば、むしろ別のところで裏付けを取っておく必要があるでしょう。
(注)私の息子は少年野球チームに属していますが、そこの選手はプレー自体はもちろん、その技術や判断に関する評価能力も野球をしない一般の成人以上です。
10 その他
将来における同種の事故の予防という立場からは、事実の解明においても係争中の事故については、法廷でされる以外は関係者が詳細な情報を開示したがらない、またそれ以外の事故についても事実や事故原因の究明という立場からすれば隠蔽や秘匿ではないかという傾向も(従来から山の中で起こったことは隠蔽されやすいのですが)しばしば見受けられますので、法的責任の追及という手段は現在のところ、あまり効果をあげているとは思えません。しかし、それは司法制度や法律家の問題ではなく、あくまで登山者自身の課題であろうと考えます。