寄稿

安全登山思想


以下は、京都労山の登山学校で「リーダー論」の講義を担当する田原裕さん(京都洛中勤労者山岳会所属)から頂いた講義テキストである。テキストは「安全登山思想」「パーティ論」「リーダー論」の三部構成となっている。大作であるので各部にそれぞれ以下の表題をつけ、別々に掲させていただくことにした。すなわち、「安全登山思想-安全で確実な登山思想を身につけるために-」、「パーティの意思決定はすべてリーダーが行う-登山における民主集中制-」、「リーダーはチームワークの要である-リーダーの任務と求められる条件-」である。

なお、ウェブ上で文字化けなどの誤りが発生したとしたら、それらはすべて私のミスである。

 2003.04.11


安全登山思想  

-安全で確実な登山思想を身につけるために- 

田原裕 (京都洛中勤労者山岳会)

《登山はスポーツ》

今でこそ登山がスポーツであることが当たり前のように言われています。一頃は「登山は自然が相手であって競い合うことを基本にしているスポーツとは全く違うものである。」などと言う人が多々見られました。「体育・スポーツが個々人の適性と能力に応じて実践することにより、その肉体的・知的・道徳的力を発達させ保持するものであり、自然環境のなかで一体化することで健全な身体と健康だけでなく、全面的でバランスのとれた人間の発達に貢献するものである。(ユネスコ第20回総会・体育スポーツ国際憲章の精神)」とするならば、また「体育・スポーツがフェアな競争によって、人間の尊厳を完全に尊重しながら、連帯と友情、相互の尊敬と理解、個々人間の親密な交流の促進を図るものである。(同憲章の精神)」とするならば、競争が無くても自然と人間を結び付ける登山はスポーツそのものなのであります。
スポーツは安全が保障されていることが前提になっているのは上記憲章のスポーツ精神からして当然です。相手を死に至らしめること目的とするボクシングや剣道があるとしたならばそれはスポーツでは無く決闘ですし、死を前提にした登山は単なる自殺行です。スポーツする者の命を大切にせず安全を軽視したり、暴力を介在させることは先に見たスポーツ精神に相反するものです。
スポーツの競技水準の向上が“より速く、より高く、より強く”という言葉で象徴されるのと同じく、登山は“より高く、より困難に”を合言葉に登山技術の向上を目指しています。この“より高く、より困難に”はあくまで実践する当事者がそれぞれの可能性を求めて追求するものであって、初登頂や初登攀ルート開拓のみに価値を求めるものではありません。スポーツとしての登山はそれぞれの適性と能力に応じて安全の確保を確実なものにしつつ登山技術を駆使して実践するところに成立します。

《安全登山思想とは》
『六つの合言葉』のひとつに“私たちは安全で確実な登山思想を身につけよう”と言うのがあります。京都労山も30数年の年月を経る中で幾多の紆余曲折やその時代を反映する盛衰を経験してきました。遭難事故もいくつか重ねてきました。1964年の大津千石岩での墜落死事故に始まり三頭山付近の沢や白馬鑓で犠牲者を出し1992年の府連盟中級登山学校における剣沢雪崩遭難事故に至るまでに5名、そして1998年には第3回初級登山学校の修了者を蓬莱峽で亡くしました。何物にも変えることの出来ない貴い命、将来日本の登山界をリードするはずであった素晴らしいクライマーを失ってきました。いま私たちは彼らの痛ましい犠牲を絶対に無駄にしてはなりません。彼らが命と引き換えにして残してくれた財産にいつも新しい光をあてることが大切です。そして自らの登山活動の中で彼らが残してくれた財産を元に一切の先入観を廃し事実のみによって安全を科学的に追求することが遭難防止の第一歩であります。この遭難防止の理念を探求し、安全を確実にする技能を身に付けること、これこそが安全登山思想なのです。
登山は大自然を支配する摂理の中に埋没しつつ、それぞれの能力と適性に応じてより高くより困難なものにチャレンジするスポーツです。ちっぽけな存在でしかない人間が大自然の山に登ろうとする以上、事故や遭難の防止、安全の確保は登山活動全体の中心をなすものです。特に登山を権利として文化として発展させ、その大衆化を目指す労山運動にとって安全登山思想の普及こそ離すことの出来ない課題です。

《遭難について》

━遭難の責任━
山での遭難事故には転滑落事故・雪崩遭難・気象遭難から水没・迷い込み・動物による被害そして火の不始末に至るまで千差万別さまざまです。またケガ人や死者がでなくても下山遅れも遭難と見なさなければなりません。遭難は単一の原因が起因することもありますが多くの場合は些細なひとつのミスが引き金となりさまざまな要因を誘引し重なり合い大きな事故に発展しているのです。その原因を突き詰めて行くと全くの天災と言うものは皆無に等しく、人間の行動が起因している場合・人間の判断により避けられる場合がほとんどです。例えば、気象遭難は人間の力の及ばない天気の変化により遭難したかのように印象付けられています。しかし遭難した原因は変化した天気にあるのではなく変化する天気を予想出来なかった人間の未熟さにあるのです。1988年10月に立山で京都の中高年齢者のグループが少々早く到来した冬将軍を予想できず8人中6人が疲労凍死した大量遭難事故があました。気象の変化を予想できれば入山は控えたでありましょう。しかし気象の変化だけが原因ではなかったのです。適切な装備、メンバーの体調の把握、乏しい冬山経験による無謀な行動などなどさまざまな原因が相乗的に作用しています。言い換えればひとつひとつの原因を取り去っていれば遭難は回避できたのです。即ち山での遭難事故は山をはじめとする自然界に責任を転嫁するとはできず人間の側に責任があること、その代償は人間が払わなければならないことを心に焼き付けておくべきです。

━遭難の原因━
社会的要因
現代の勤労者は深刻な構造的経済不況の中にあって政府や財界が犯した失敗の尻拭いを一身に背負わされています。その勤労者が生きがいを求めて又リフレッシュし明日への活力を得るために山に登ろうとするのは当然の権利です。しかし低賃金過密労働を強いられている毎日の生活の中で何泊かで登山をするとき休暇を取るために無理を強いられますし、アプローチはたいていの場合夜行で登山口に行くことになります。疲れた身体に寝不足を引きずって登り始めるのです。加えて休暇を充分取れないために無理なスケジュールを余儀なくされれば勤労者が山に行くとき事故の要因を2つ3つその肩に背負っているものと言わざるを得ません。

人間として生きるために欠くこと出来ない営みである登山、権利としての登山を認めようとしない政府が山岳遭難を未然に防ぐ施策を怠っているのも大きな要因です。避難小屋の整備などは地方自治体やボランティアに任せ、いまある重要な山小屋を撤去させようとしていることなど言語道断です。公的な登山教育施設は立山にある文部省登山研修所しかありません。日本中に満ち溢れている中高年登山者に対応する教育施設は皆無といっていいほどです。また山岳遭難事件が発生してもヘリコプターのチャーターもままならないほど救援体制は貧弱でヨーロッパのそれと比べる事も出来ません。付け加えておきますが遭難事故に際し活躍してくれている警察や山岳警備隊そして地元の遭対協の人達はその自発的な努力で素晴らしい力量を築き上げています。しかし彼らに対する待遇や保障の面でも日本は貧弱です。

技術的要因
日本の登山技術は世界のそれと肩を並べる高い水準に到達しています。但しそれはトップレベルの人達の事であって、相次ぐ有名登山家の死亡事故や高齢化、高い技術をもった人達の育成の遅れなどから広がりを持った高水準にはなっていません。また基礎から体系的総合的に学ぶことの出来る教育の場が極めて少なく、爆発的に増加している登山人口に対応することができない状態です。反面、テレビの山岳番組や山岳雑誌などのマスメディアでは難しい危険なルートも誰でもいとも簡単に登れるように紹介され、アルペンスーパー林道やロープウェイで何の苦労もなく2500mの高所に入れるようになっています。体力・技術・知識の乏しい登山者が増えれば遭難事故が起こって当然です。登山学校や講習所などの施設や機会の少ない日本において、全分野にわたって基礎から登山を教えるリーダーを養成することは急務中の急務であり、この登山学校もその一環です。

思想的要因
“登山はスポーツ”と言う考え方は今では当然のように定着しつつあります。スポーツとは人間が自然界で心身の発揚を喜びとする肉体的精神的交渉であり、それは真に科学的なものです。しかし近代スポーツの祭典とも言えるオリンピックの精神を歪める記録中心のスポーツ観がはびこる中、登山界でも未踏峰や8000m級の山にのみ価値を求める英雄主義的登山観や国威発揚を目的とする国家主義的登山観など客観的観念論を特性とする登山思想があり、一方では連れてって登山や乗っかり登山などの主体性を欠いた登山が中高年齢者を中心にはびこり、昔とった杵柄をいつまでも後生大事に暖めているなど山に行くことだけが目的になった自己の技術を客観的に評価出来ない主観的観念論を特性とする登山思想が横行しています。このような科学性を追求しない登山思想が遭難事故を誘発する要因と言っても過言ではないでしょう。

━山での責任の所在━
『山での事故はすべて個人責任である。』という考え方が過去においても現在も主流になっています。しかし個人責任の考え方では山での事故を無くすことができないことは今までの歴史が証明しています。山で事故が起こればその原因を考えます。その時に個人にだけ原因を求めることでは事故を矮小化し真の原因に接近することができません。先に見た遭難の3つの要因を考えるとともにその責任の所在を考えることが重要です。ただしここでは社会的政治的な責任の所在は省きます。

個人の責任
登山に関する稚拙な知識、未熟な技術、体力の過信、主体性を欠いた精神、などやはり個人の責任は重い。

パーティーの責任
特にここではリーダーの責任が最も重要である。パーティーにおいてリーダーの権限は絶対的である。その権限はメンバー全員に及ぶものであり、そこに起こる危険を回避し事故を未然に防ぐ義務がリーダーには存在する。また個々のメンバーもリーダーの判断は絶対的とはいえ意志決定をゆだねているだけでその判断に至るまでの過程に対して無関係であることはできない。とすれば危険回避は当然のことパーティー内で起きた事故には個々のメンバーもその責任を問われることなる。

山岳団体の責任
未組織登山者は除き、個人やパーティーが所属する山岳団体はその個人やパーティーの山行を管理する立場にある。例会を多くして会員を山に連れて行く事が山岳団体の任務ではない。会員に対し安全登山に関する考え方を普及し山行に見合った登山技術や体力を身につけさせる教育的任務。計画書の審査や必要な装備の普及など遭難事故を未然に防ぐ手立てを重層的に張り巡らす遭難防止の任務。被害を最小限に押さえる遭難対策や遭難救助の任務。これらの山岳団体に課せられた任務は個々ばらばらに捉えるのではなく、山岳団体は会員一人一人にこれらのことを供与し主体性をもった登山活動ができるよう指導援助するとともに山行管理という形で総合的に具体化することでその責任をまっとうしなければならないのである。

━遭難対策━
教育活動
遭難を防止するための最も有効な方法は登山者に対する教育活動を強めることです。
第一は勤労者としての正しい登山観を広く普及することです。真摯にそして科学的に登山を考える姿勢を身につけ、実践において厳格に守る習慣をつけることです。

第二は初歩から体系的総合的に高い登山技術を習得することです。登山技術と言うと初心者は雪も岩もしないのだからと言って実践的学習を怠る傾向にあるが以っての外です。登山技術を総合的に習得できなければ即ち部分的な技術だけではダイナミックに変化する山岳・さまざまに様相の異なる山岳において的確に対応することは出来ないでありましょう。歩行技術・岩登り・沢登り・冬山登攀・安全確保の技術・服装装備・気象・読図・救急法・トレーニング法・山での生活技術などなど学ばなければならないことは目白押しです。それぞれが独立した専門的な学問にまで発展していることを思えば登山学と言う山の頂上ははるか高いものです。また近年山でのアマチュア無線の活用は常識になっており、登山者が免許を取るための学習をするのは当然のこと有効で正しい運用のための学習もしなければなりません。

第三に技術論だけではなくパーティー論やリーダー論などの登山における組織学を身につけ広く普及することが重要です。原則的ではありますが山は一人で登るものではないのです。登山を文化性の高いスポーツとして実践しようとするならばそこに複数の人間が存在していなければなりません。人間二人寄れば組織であり、以心伝心の仲間同士でも得手不得手があり役割分担をするものです。パーティーが安全で一丸となって行動するためには統一された組織論が常識になるまで高めることが必要です。

登山環境の整備
勤労者が文化として権利として安全な登山を実践するためには、労働条件や生活環境の改善を含め登山環境の整備が不可欠であることは前に見ました。勤労者が山に登る以前から社会的市民的運動と隔離して生きて行けない存在であるのは言うに及ばずその勤労者が登山要求を基礎にもろもろの社会的市民的運動と密接に結び付いていくことが登山環境を改善させていくことになります。また大企業本位の自然開発や無秩序な自然破壊に反対していくとともに登山口の整備や避難小屋の設置など登山を安全で快適なものにするための環境を改善することは遭難を減少させる筈であり、国や自治体に働きかけ登山者自身が積極的にかかわって行くことが求められています。

遭難救助
遭難事故が発生すれば救助捜索隊が出動することになります。今までの京都労山における救助捜索隊は登山経験の豊富な会員の献身的な協力を得る形で編成してきましたが系統立った組織にはなっていませんでした。そのような反省から京都府連盟では救助隊が結成されています。組織だった救助隊を作ることにより常に出動できるようにし、実際の遭難事故で被害を最小限に押さえ無事に下山するために、岩場や積雪期の搬出をはじめ捜索や後方支援などの学習から実践的訓練を隊員を中心に積み上げ広げています。労山の会員は経験の厚薄にかかわらず自分のできることから積極的に参加していただきたいものです。初級登山学校の受講者は全員救助隊登録を行ってください。またこの事は遭難事故を他人の絵空事ではなく常に身近に感じ絶対に起こしてはならないと認識できるようにし、同時に救助捜索活動に大変なエネルギー(費用と労力)を投入しなければならないことを教えてくれます。詳しいことは救助隊で学んでください。ただここで強調しておきたいことは“山に登れば誰でも遭難事故に巻き込まれる可能性があり、すべての登山者は遭難を回避する活動や救助活動にかかわる責務がある。”と言うことです。

遭対基金
一度遭難事故が発生するとその捜索救助活動に莫大な費用が必要になります。捜索救助費用は年々増加しておりヘリコプターを一回飛ばすと30分間で100万円もの費用が要ります。ヨーロッパの山岳では安い費用で遭難救助費用を担保する保険制度が政府の主導の下に整っていますが政府が何の方策を持たない日本とは雲泥の差があります。ですので日本ではこの費用は遭難事故にかかわった者及びその家族が全額分担して払わなければなりません。労山では日本の山岳保険の中で最も優れた内容の遭対基金制度をもっています。捜索と人命救助に重点をおいた個人加入を基本にする制度です、団体加盟分や各会および連盟で積み立てられている初動資金などの基金とも連動して運用されています。遭難事故を起こさないようにするため教育活動にも運用されています。万全な制度ではありませんし加入しているから安心と言う訳でもありません。しかし遭難に対する予防意識を喚起し、捜索救助費用の負担を出来るだけ軽減する上で大きな役割を果たしています。加えて共にパーティーを組む仲間に対しても最低限のマナーだと言えます。

《終わりに》
前に述べたように安全登山思想とはいかに遭難事故を起こさないかを追求する理念と技術論・組織論を集約するものです。登山の対象となる自然そのものの科学(自然科学)とそれにぶつかって行く人間の側の科学(社会科学)を統一的に捉え、実践において検証しながら原則(法則)を見いだしていくものです。学んだことを山で具体的に実践し、反省と総括を厳格にすることにより高い安全登山思想に発展して行くでしょう。それも一人だけのものではなく、仲間と教え合い学び合うことによりよりいっそうの広がりと深みを持ったものにしなければなりません。

法律的には単なる任意団体でしかない労山ではありますが“今、日本の登山団体で一番元気のあるのは労山”といわれる所以は労山が登山の文化的社会的価値を継承し発展させることの一つとしてこの安全登山思想の普及を重要な課題にしているからでもあります。


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