寄稿

米国的なウェーバー・フォームなどの法的整備を

拙文「先輩には無知な登山計画を変更させる法的責任あり!?何がなんでも、それはないんじゃないでしょうか。-弘前大学医学部山岳部遭難訴訟控訴審第一回口頭弁論の報告書- 」は、係争中の事案であったので、本ページへのアップロード前に幾人かの信頼できる方に査読をお願いした。頂いた貴重なサジェッションのうち、本ページへの掲載の許可をいただいたご識見を順次公開させていただくことにした。

なお、ウェブ上で文字化けなどの誤りが発生したとしたら、それらはすべて私のミスである。また、タイトルは私の独断による。


早速レポートを拝見しました。ご主張と本論考の回覧、HP掲載に賛意を表します。

本論考にも言及されている通り、この論考を拝読する限り第一審の判決はきわめて妥当なものと感じました。この判断が覆ることとなれば、登山者全般の権利だけでなく、場合によっては逆に関係者の人権にも関わる大きな問題といえるでしょう。また、責任を問われたくないがため、「私はとにかく止めた」という既成事実作りのために、念入りに吟味することなく登山計画を不承認にするケースが増え、結果として無届(かつ無謀)登山が増えないとも限りません。これは登山活動全体にとって福音なのでしょうか?。

誤解なきよう申し添えますが、無謀登山の犠牲者とそのご遺族の心情は推察に余りありますし、遭難・事故の防止と、万が一それが発生した際の原因究明は関係者全ての責任と義務です。しかし引率責任の明確な場合や、それを生業とする場合ならともかく、山行を承認したとの理由で、山行の留守宅本部、所属山岳会会長等に事故責任の所在を求めるのは、魔女狩りにも近い責任転嫁の環をますます助長することにもなりかねないと感じます。(もちろん、このような論理を隠れ蓑に安全管理を故意に怠るような団体は処罰の対象となるべきです。)

全てを予知できない厳しい自然の中に出かけていく以上、それは自己責任のもとに行われるべきです。今回の事例は、経験の少ないパーティーによって引き起こされた点で、責任の所在を巡って異論が噴出するのは無理からぬことですが、責任論を展開するには、まずはじめに遭難者本人の意思に反して合宿に参加させた事実を証明しなければならないでしょう。自己意思を主張しにくいという点で、大学山岳部の状況は特殊かもしれませんが、それらも全て踏まえて、山岳部という団体に所属した時点で、このような悲劇の可能性がある点は了承したとみなして良いのではないでしょうか。

しかしながら、客観的に見てこのような判断の将来性はむしろ悲観的です。さまざまな価値観があふれ、それが容認される健全な社会を目指す以上、「理不尽」と感じる死に対して法的手段でもって「社会的正当性」の判断に臨むことは今後常識となるでしょうから。良くも悪くも、国家レベルで米国的Globalizationを旗印に掲げるのならば、この趨勢からは逃れられないと思います。いまや法曹人口の爆発的な増加を前に、今回ような法的判断の堤防がいつ決壊するかという問題になりつつあります。(法曹人口を増やすということは、その人たちが生業とする法的決着の機会を増やすということですから、当然逆の判断を支持する弁護士と提訴者も増えるでしょう。)私たち登山者が取れる予防策として、今回のような判断を支持することに加え、米国的なウェーバー・フォームなどの法的整備を求めるべき時期が来ていると思います。

ある社会人山岳会(日本勤労者山岳連盟加盟)に所属するAさんのメールから

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