寄稿

パーティの意思決定はすべてリーダーが行う


以下は、京都労山の登山学校で「リーダー論」の講義を担当する田原裕さん(京都洛中勤労者山岳会所属)から頂いた講義テキストである。テキストは「安全登山思想」「パーティ論」「リーダー論」の三部構成となっている。大作であるので各部にそれぞれ以下の表題をつけ、別々に掲させていただくことにした。すなわち、「安全登山思想-安全で確実な登山思想を身につけるために-」、「パーティの意思決定はすべてリーダーが行う-登山における民主集中制-」、「リーダーはチームワークの要である-リーダーの任務と求められる条件-」である。

なお、ウェブ上で文字化けなどの誤りが発生したとしたら、それらはすべて私のミスである。

 2003.04.11


パーティの意思決定はすべてリーダーが行う

-登山における民主集中制-

田原裕 (京都洛中勤労者山岳会)【パーティー論】

《単独登山》
数年前、兵庫県で『孤高の人』(新田次郎作)のモデルになった加藤文太郎に心酔していたという労山会員がやはり単独で扇ノ山に行き遭難死しています。骨折をして副木をあてて苦闘の途中転落をし肋骨を折って行動不能になって死んでいったようです。事故の要因はいろいろあるでしょうが人のほとんど入らない山域に単独で行くのはもっとも危険な行為と言わざるを得ません。『死んでも本望』と本人は言うかもしれませんが本当に死ぬ気で山に入る人など一人もいないしそんな人は山に入る資格も権利もないのです。単独行には静寂の中を自分の登山知識と技術を駆使し体力と五感をフルに働かせて自分の力だけでやり遂げる充実感は格別のものがあるかのように言われています。しかし実際はそんな格好の良いものではありません、転んでも誰も見ていない位なものでさまざまなトラブルが発生しても誰もいないから自分で切り抜けるしか方法がないだけです。単独行を好む人はプライドが高く他人との融和性に欠ける性格のようにも思えますが以外と寂しがり屋で山中で人に会おうものならすぐに話しかけてくるものです。単独行だけにこだわる人がいるとしたならば余程人間社会で痛め付けられて人間不信に陥っているか自己中心的な独りよがりで人間社会からはみ出した人でしょう。わたしたちは単独登山を決して否定するものではありません、その楽しさや充実感も知っています。ただ行くときには無難に無難を重ねた計画の上にできるだけ人のいるコースを選びたいものです。

《パーティーとは》
さてパーティーとは私たちが単独ではなく複数人数で山に行くときの最小の単位を言います。1個のパーティーが二人の時もあれば百人を越える時もあります。装備の軽減や安全性を考えるとパーティー登山の方が断然有利だし得手不得手のある仲間同士がそれぞれの個性を生かし特色ある力を出し合って目標をやり遂げる充実感、そこで養われる文化性は単独行よりはるかに優れています。しかし近年の中高年齢者を中心にした爆発的な登山ブームの中で他力本願的な『ついて行く、連れて行ってもらう』といった旅行会社が行うツアー気分の人が急増していることには警鐘をたたかざるを得ません。山に登るのは自分であり苦しみも喜びも味わうのは自分です。だから責任も自分で負わなければなりません。例えばサブリーダーがコースを間違えリーダーを含め誰も何も言わずに『ついて行って』道を失いビバークしたとします。リーダーは何も指示しなかったこと気づかなかったことを反省するでしょうが他のメンバーはどうでしょう。パーティーの一員として機能していないことを自覚しなければなりません。パーティーが間違った方向に進んでいると気づいたらリーダーやサブリーダーに意見として言うべきです。結果的にビバークをせざるを得なくなった責任をサブリーダーやリーダーに押し付けることはできないし間違いやすいルートを持つ山のせいしても仕方のないことです。間違ったのは自分であり責任はメンバー全員にあるのです。 パーティーの一員になる以上、他のメンバーと体力や技術で引けを取らないためにトレーニングを積み練習をするのは当然ですが山行の目的達成のために何らかの役割を背負わなくてはなりません。役割分担をするときに最も重要になるのがリーダーです。仲間同士なのでそんな堅苦しいことを決めなくてもよいのではないかと言う意見もあるでしょうがこれがくせ者です。決定機関を持たない組織を『烏合の衆』と言うようにリーダーを持たないパーティーは無責任集団でしかありません。
愛知県連理事長の洞井孝雄氏が目立つ集団無責任体制と言って述べている文章があるので紹介します。
年長であるとか経験(年一回の登山でも十年で山歴十年)があるとか、登ったことがある(人の尻にくっついて行ったのかリーダーとして登ったのか?)とかひどいときには『男性』であるというだけでリーダーにされてしまうことさえある。こうしたパーティーに限って、パーティーという概念は念頭にない。勝手に立ち止まったり疲れたからと動かなかったり、休憩を要求するメンバー、リーダーの指示にもあれこれ口を出して従わないで、ペースは定まらない、行動は成り行き次第で変更する、要注意箇所の通過では渋滞するといった、船頭ばかりのナアナア山行になる。またある場合にはメンバー個々がわずらわしい配慮や判断をリーダーに押し付け『連れていく人、ついていく人』の関係だけの集団無責任体制の山行になるか(途中で道に迷ったり、一夜を明かすことになってもメンバーは口を揃えて『リーダーを信頼していたので不安はなかった』なんて言うんだ、きっと)のどちらかである。無事帰ってくれば、自分の生命にかかわるような危険も武勇伝のひとつにスリ変えられるか、リーダーの責任にしてしまう。そんな仕組みになっているのがおおよそのところだろう。

━パーティーの力量━
メンバーの体力や技術がそろっている時のパーティーの場合、個々のメンバーの力量が100 引き出され相乗効果も加わって意外な力を出すものであります。しかし日ごろの山行では新人が入ったりトレーニング不足の人がいたりして体力や技術に違いを持ったパーティーがほとんどです。このような場合、パーティーの力量は最も弱い人の少し上の状態であると認識していた方が良いのです。山行計画を立てる時、目標山域や山行内容を重視する場合はメンバーを限定しなければなりません。一度も一緒に登ったことのない全く力量の解らない人をメンバーに加えることはできませんし体力や技術に不安があるときはトレーニングメニューを示しその消化状況を見たうえでメンバーに加えるかどうかを判断しなければなりません。『あなたは行けませんよ』とは言いにくいものですがその理由を示すことで納得してもらえるでしょう。その理由が道理にかなった理不尽なものでなければ理解は得られるはずです。それでもだだをこねる人ならば絶対にメンバーに加えてはいけません、会をやめられても仕方がないでしょう。反対に公開山行などのどのような人でもメンバーに加える場合は目標山域や山行内容を最も力量のない人に合わせたレベルに落とさなければなりません。このときの計画は難しいものです、最も力量のない人にだけレベルを合わすと他のメンバーは面白くなくなり山行自体が成立しなくなることもありうるからです。そのような山行でも山行の目的を登山愛好者を増やすこととか会員同士の親睦をはかることなどにおき、登山技術にかかわらない他の楽しみで成立させる努力も必要なのです。極端な場面を想定して考えてみましたが実際はそんな単純なものではないのは皆さんも経験済みのことでしょう。パーティーを結成するにあたり十人十色、千差万別、四季折々、変幻自在の山、考えなければならないことは無尽蔵にあります。だから楽しいのです。

━登山における民主集中制━
リーダーは計画を立案しメンバーに提案する時からその山行が終了するまで一切を統括するものです。リーダーの下、メンバー全員で目標とする山を決め山行目的を明確にしてサブリーダーや他の役割分担を決めます。提案された計画内容を検討するのです(議会的機能)。当然そのときはリーダーの資質も問われものであり、山行目的をはじめ計画内容や役割分担をメンバー全員の統一した認識にするのです。特にだれがリーダーを努めるのかを全員で確認しなければなりません。充分に討議された内容(決定)を執行する責任者がリーダーです。山行を実行する状態に入ればパーティーの意志決定はすべてリーダーが行います(内閣的機能)。このときからリーダーの指示決定はメンバー全員に対して絶対的権限を持つのです。言い返せばメンバーはリーダーに絶対服従です。メンバー全員で論議し決定した山行計画(方針)を自らが選出した執行機関であるリーダーに委ね執行の際に行われる意志決定に従うのです。ただ単に従うのではありません、最善の努力をして実践するのです。リーダーが意志決定する際にメンバーは疑問があれば意見を言うことはできます。しかし下された決定には服従しなければなりません。意見が異なるからと従わないことは絶対に許されないのです。この民主集中制こそ組織の力を十分出し切ることのできる組織形態なのであります。民主集中制は何も日本共産党の専売特許ではないのです、登山をする者が安全を第一に目標をやり遂げ目的を自分たちのものにするための組織原則でもあります。だから安易な形でリーダーを決めてはなりません、極端なことを言えば自らが決めたリーダーに命さえも任す覚悟が要求されるのです。なお付け加えておきますがリーダーは山の案内人でも世話役でもありません。リーダーの最大の仕事はたとえさまざまな事情で目標となる山に登れなくても目的としたものを勝ち取りメンバー全員を安全に下山させることに尽きるのです。

━チームワークと目標━
登山をしようとする個々人は日頃から学習とトレーニングを行って登山知識と体力や技術の研鑽に励むことは当然です、パーティーの一員になれば実際の山行では計画通り目標目的を達成し安全に下山するまで自分に与えられて役割を完全に果たし、リーダーに献身的に協力しなければなりません。自分の知識や技術をひけらかしたり、自分だけ良い目をしようとか、メンバーのだれかを出し抜いてやろうとか、チームワークを乱す行為は厳に謹まなければなりません。あくまでもパーティーの一員として謙虚にそして真摯にパーティー全体に責任を負う心構えが必要になります。
チ-ムワ-クと目標のことについて第2回全国登山研究集会で町田和信氏が述べられた文章がありますので紹介します。
パーティーが目標に向かって一致して力を出さないと、たえず変化している自然の中でおこなわれる山行は成功しません。成功の条件はその山行の目的をはじめから明らかにしておくことです。それと同時に具体的な目標をも明らかにしておくことが大切です。山行の目的と目標についての実例を紹介しましょう。
私は1964年にヒマラヤへ遠征し当時未踏峰としては実質的に世界第一位だった、ギャチュンカン(7,922メートル)に初登頂しました。ヒマラヤ登山の成否のポイントは、天候とチームワーク、高山病であるといわれています。ここでは天候と高山病についての説明にふれる必要はありませんが、チームワークについての経験を、ふりかえってみることにします。いくら山の好きな隊員たちでも、3~4ヵ月も人里から離れた文化から遠ざけられた氷河の中で、厳しい寒さや暑さ、ジェット気流とよばれる烈風などにいためつけられ、高山病で、ガンガンする頭をかかえていると、「もうヒマラヤなんか、どうでもいいや」という心境になってきます。いくらおさえようとしても、感情がたかぶってイライラしてしまうのです。仲間のイビキが、しゃくにさわり、鼻の形にケチをつけ、食事がまずいといってグチをこぼします。ルート工作で氷河にステップをきりこんでいるうちに、手が血だらけになっているとき、重い荷物をボッカしているときに、頂上アタックを予定している隊員が休んでいるのを見てうらめしくなります。なにひとつをとってみてもチームワークをこわす条件ばかりでした。ヒマラヤに遠征して登頂できなかったパーティーの大半が、チームワークの乱れが失敗の主な原因になっているのをみても、チームワークをかためることのむずかしさがよくわかります。しかし私たちのパーティーでは、トラブルがおきませんでした。登頂後の記者会見でチームワークの良かった点にふれたある記者が、「がまんの上のチームワークでしたね」と評価しました。私もそう思います。しかし一歩つっこんで「なぜがまんできたのだろう」かを考えてみると、おおよそ次ぎのようになると思います。私たちの登山隊は、ヒマラヤの未踏峰ギャチュンカンへの初登頂を具体的な目標にして、力をあわせて頑張りました。しかし、このヒマラヤ登山を企てた本当の目的は、ギャチュンカンの頂上で旗をふることではない。2~3名の登頂者がヒマラヤの頂上に立つことではなく、働く多くの青年たちの全てが「山に登りたい」という人間のもっている本質的な願いを実現させることであること、そのために、このヒマラヤ登山を役立てたいというものでした。つまりギャチュンカンへの登頂は具体的な目標(サブスローガン)であり、目的(メインスローガン)は1000万人の登山愛好者に登山のすばらしさをひろげようというものでした。ギャチュンカンへの登頂が目的の全てであったら、登頂までは「ガマンの上のチームワーク」が保たれたとしても、登頂後には一度に、つもりつもっていた「ウミ」がふきだしたでしょう。「下山のときに大喧嘩になってなぐり合いをした」、ヒマラヤ登山にそんな例は、いくらでもあります。ギャチュンカンの頂をめざしながら、ヒマラヤより高い山に目的をおくことのできた貴重な経験は、いまだに私の心の支えになっています。だいぶ話が横道にそれましたが、チームワークは目的なしに定まらないことが明らかになったと思います。

《登山における目的論》
先に見たようにチームワークの要は目的でありました。それでは次に目的と目標との関係を考えてみましょう。まず最初に目的のない山行と言うものはありません。もしあるとすれば夢遊病者か痴呆症の人が山を歩くことくらいになるでしょう。目標とは山行の現場となる山を言い、山頂、山麓、尾根、沢、岩壁、高層湿原など様々なフィールドがその対象となります。

━目的と目標が同一である場合━
例えば百名山を踏破する目標をもち、そのためだけに即ちその山に行くことだけを目的として山に行くという場合です。百名山であるその山に登れれば良い訳ですから誰に連れて行ってもらおうがどのようにして登ろうが問題にはなりません。主体性も自立心もまったく関係なく、とりあえずその山に登れば良いのです。今はやりのツアー登山に乗っかって手っ取り早く登ってしまえばそれで一つの目標を成し遂げたことになるのです。
百名山に限らず、自己の主観を充足させることと目標となる山に登ることが同列に並ぶような主観的観念論を基調とする登山の行き着く先は『自我』の世界です。自分があって他はどうでもよい個人主義=唯我論の登山にならざるを得ません。そして結局単独登山に行き着き主体性を確立するように見えるのですが、その主体性は極めて狭い範囲の自然に対して存立しているだけで社会性をもって多彩に発展する登山に照応することはできないのです。安全の面からはどうでしょう。主体性を欠くことも厭わないこの性格は安全対策を自らの責任とする必要はなく他にその業務と責任を転嫁してしまうことに何の躊躇もしません。他人任せの安全が二の次の安全であり、山岳ガイドに導かれた登山でも死亡事故が発生していることを見てみても明らかであります。単独登山における安全性においては言うまでもないことです。
他方、このような登山観は登山が政治的に利用されること(戦前日本山岳聯盟は日本体育聯盟に吸収され戦争推進に協力させられた)も採算優先の商業(ツアー登山、ガイドなどの職業登山ではない)に利用されることも容認します。なぜなら自分の外にあることは自分には無関係だと考えているからであり、平和運動や自然保護の運動など入る余地もないのです。その結果登山にある高度な文化性及びスポーツ性を欠落させてしまうのです。

━目標と区別した目的をもつ二つの立場━
わたしたちは登山者である前に歴史的に成長してきた社会人であり、その社会が歴史的に継承してきた文化を享受し発展させる文化人であります。その文化は未来に向かって次世代に継承すべき創造的で科学的なものと人間が勝ち取ってきた歴史的成果を否定し逆行させる反動的で非科学的なものの二種類に大別することができます。わたしたちが登山を文化として実践するときその目的を後者においてはならないのです。
後で学ぶことですが登山の歴史を振り返って見ると食料を得るために行った登山即ち労働の場として山に入る登山は別として、はじめから宗教的世界観から自由な民族はいなかったように日本でも古くから信仰の対象としてまたそのための精神修養を目的として登山が行われてきました(大峰山奥駈修行)。また皇国史観のもと軍国主義時代に行われた行軍登山(八甲田山の大量遭難)や国威発揚を旗印に行われる登山(国旗を掲げての8000m峰登頂)など客観的観念論を基調とした登山は過去においても現在でもさまざまに様相を変えながら存在しています。このような登山は登山とは別のある一定の目的のために登山を手段としてのみ利用する点で近代的なスポーツ理念の精神や安全を科学的に追求する立場とは常に一定の距離をもっています。登山が手段になっているために登山とは別のある一定の目的が主で手段が従といった認識に陥りやすいのです。目的と手段とが相互に影響しあい関連しあう関係ではなく、手段である登山が一方的に従ということであり、安全が従になってしまうという土壌を作り出すことになるのです。。
そうしたら山行を計画するときどのような目的を設定すれば良いのでしょうか。登山は極めて文化性の高いスポーツであります。他のスポーツ種目と同様歴史的に発展してきたものであり、人間が個々バラバラにではなく社会的結合の中で実践されるものであります。安全を追求するためには自然科学を純粋に追求しなければならない性格をもっています。実践するのは人間ですからこれら社会科学や自然科学を有機的に結び付ける精神即ち人文科学からの追求がどうしても求められます。加えてスポーツでありますから登山技術やそれを保証する体力を養わなければなりません。目的を設定する場合それらに関連して実践する人の登山の可能性を広げ、自由な人間として成長し得るものであれば良いのです。たとえば反社会的な目的をもって登山にのぞむことは論外として、文化性と言う点からしますと四季折々の山の自然を愛でる山行や仲間と親睦を図り信頼しあう喜びを分かち合う山行など多種多様な山行が考えられます。可能性を広げる目的としては登山技術や体力の向上、組織論などの認識の検証、実用的な装備の検証、読図力などなど挙げれば切りがありません。女性委員会が行っている山行のように『自立した登山者として、より安全で、楽しい登山を学ぼう高めよう登山者意識』をメインスローガンにしておられることなどは大変すばらしい見本だと思います。以上見て来たように目的の持ち方で登山の性格が決定されます。ところが実際の登山では今見て来たことが典型的な形で存在する場合は稀でこれらがさまざまに形態を変えながら混在する場合がほとんどであります。特にわたしたちが注意しなければならないのは安全を第一に追求する登山(科学的な登山)を目指しながら「自分の責任は自分が負うのだから」と集団としてのルールを無視する個人主義を持ち込む傾向や山行中に困難に陥っても「ここまで来たのだからもったいない」と撤退すること(科学的な判断)をせずただただ頑張れ頑張る気持ちがあれば困難は打開できるといった前近代的な精神主義などの主観的観念論が容易に入り込む余地を持っています。またツアー登山やガイドを頼んでの登山でお金を払ったのだからこれで安全は確保されたと無邪気に安心したり、経験者を絶対視して無条件に全面的に頼ったり、理解しがたい困難や不思議な自然現象に出会った時に超越的な力(神や心霊などの)などを持ち出して手っ取り早く納得する客観的観念論に陥ったりします。このようなことを防ぐには目的を正しく持てば良いのかというとそうとばかりは言えません。ただ目標と目的を区別し相互に関連させて認識することによりこのようなことの入る余地を少なくし、困難に対しても科学的な判断ができる可能性を高めてくれるとともに目標の段階的な発展を保証してくれるのです。
目標と目的を区別し相互に関連させるとはどういうことなのでしょうか。例えばキノコハイクの場合キノコ採りが目的となりキノコの生えている山が目標になります。北山のような低山や大きな山の麓のある限られた時期がその対象となり、決して3000m級の岩稜になどは行きません。キノコの生えている山に登るにはキノコの知識とともに基礎的なハイキングの知識と技術が求められ、その知識や技術を養うために(目的として)様々な山(目標)にハイキングにでかけるようになります。また冬山の3000m級の岩稜という目標はアルパインの対象となり高度な登山技術と知識が要求されます。そのような技術や知識を養うために(目的として)は、冬山の3000m級の岩稜(目標)に登ることが可能になるような山に登ることが絶対的に必要です。皆さんも自分の実際の山行の中で目標と目的の相互に関連する姿を研究してください。様々に変化し発展する山行が見えて来て、それぞれに明るい展望を見いだされることと思います。


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